おさる
奏山さんとは、とくに親しくなかった。というか、どちらかというと、自分は馬鹿にされていたほうだと切子は自覚している。
女子校にいるのに女子っぽくなくて、反応も薄い切子のことを、奏山さんはあからさまにターゲットにすることはなかった。悪口を浴びせられたり、嫌がらせをされるのは、いつもほかのもっと反応過剰な子たちだった。
けれどもよく覚えていることはある。奏山さんのほうは、もしかしたら覚えていないかもしれないけれど、切子のほうはよく覚えている。
切子は小さなころからずっとショートカットだったのだけれど、四年生に上がったときから、ちょっとずつ伸ばしはじめた。かわいくなりたいと思ったのだ。ショートカットでも、まわりのおとなたちは、かわいいよ、と言ってくれた。でもそうじゃなかった。おとなたちにはうまく説明できなかったけれど、切子の、あくまでも切子にとってのかわいくなりたいという願望は、ショートカットからロングヘアを目指すことだったのだ。
一年間かけて、けっこう伸ばした。スポーツ少年みたいだったショートカットは、落ち着きのあるセミロングに変わっていた。
五年生に上がった日、切子はまっすぐに伸ばしたその髪に、花のかざりをつけていった。ハイビスカスを模した髪かざり。家がとなりの幼馴染みのお兄ちゃんが、春休みにハワイ旅行に行って、買ってきてくれたのだった。
五年生のクラス替えは微妙だった。うるさい子たちが多い。四年生のままのほうがよかったな、と肩を落として新しいクラスの新しい席を、確認していると――唐突に、その声が飛んできたのだった。
『あれ、髪伸ばしたの?』
自分以外のだれかに話しかけているのかと思ったから、最初は振り向きもしなかった。でも違った。
『ねえ、ねえってば。無視しないでよ』
ちょっと大きな声に、びくりと振り向いた。すると奏山さんはあきらかに、切子に向けて話しかけていた。取り巻きの子たちの視線も合わせて、切子の心臓はばくんばくんと鳴りはじめた。
奏山さんとおなじクラスになるのは、三年生のときぶりだった。
『その髪かざり、すてきだね』
『そんなことないよ』
声が、上ずってしまった。それに、嘘を言ってしまった。髪かざりは、すてきだ。だって、となりのお兄ちゃんがくれたものなんだから。とっさのことで、謙遜の方法さえわからなかったのだ。
『色気づいてる』
奏山さんはそっと笑った。その小学生離れした大人っぽい表情に、切子は見惚れた。
『ホテルに行く予定でもあるの?』
ホテル。
おしゃれですてきな場所のことだ、としか切子は思わなかった。それだけの知識しかなかったのだ。だから、褒められたのだ、と思った。
小学校五年生の生活への期待が、光のように、切子の心をいっぱいにした。
家に帰って、お母さんに真っ先に、そのことを報告した。褒められたことが嬉しくて、ありのままを。するとお母さんは顔をしかめた。黙りこくってしまった。
やがて高校生のお姉ちゃんが帰ってきた。事情を知ったお姉ちゃんは、やあだ、と本気で嫌そうに言った。
『あんた、それねえ――』
そして意味を教えてくれた。
その夜、切子は髪を切った。お風呂のあと、洗面台の前で、ばっさりと。
翌朝とぼとぼと登校すると、五年一組の教室から話が聞こえてきた。
『あのさあ、昨日おさるが発情しててさあ――』
切子は、教室に足を踏み入れた。
『やだ、びっくりした。ねえ見た? おさる、傷ついちゃったみたいだよ。また髪あんなんにしちゃった。ほんと、マジおさるだね。すぐに気にしちゃって、つまんなーい。だれか猿山に連れてってあげてよ』
やだ、やあだ、と取り巻きの女の子たちがくすくす笑う。
おさる、というのは自分のことだと――切子はそのとき、やっと気づいた。
切子は教科書をしまっているふりをして、おとなしく生きよう、と決めたのだった。髪なんて伸ばすべきじゃなかったし、花のかざりなんか似合うはずなかったし、となりのお兄ちゃんはやがてすぐに彼女ができるんだろうし、自分は一生、かわいくなんてなれない。わきまえて生きよう。だって、手が震えるし、心臓がばくばくするんだから――それから、切子は、この教室で堂々とすることなどできなかったのだ。奏山さんが一定の範囲のなかにいるときには、とくに。
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