くつわと鼻輪
「馬のお世話って、どうやるか知ってる?」
シスター・ルチアの質問に、切子は首を横に振った。そうよね、とシスター・ルチアは笑った。なにがどう、そう、なのだか、切子にはわからなかった。
「じゃあ、今日からいっしょに覚えましょうね」
切子は黙ったまま、うなずいた。
朝のホームルームのあと、奏山さんはシスター・ルチアに促されて、教室の後ろに立たされていた。ひとりにつきひと区画割り当てられているロッカーやら、時間割りを書くための小さな黒板と、平行の位置関係で、奏山さんは立っていた。
馬の身体はのっぺりとしているのだ。
「動物にはなにかいつも、拘束するものをつけてあげなくちゃなのよ」
「こうそく?」
「やだ、田辺さんもしかして言葉の意味がわからないの? このあいだの国語の授業で、意味をみんなで確認したじゃない」
「忘れちゃった」
「首輪とか、鎖とかのこと」
「いまはどうして、奏山さんは、なにもつけていないんですか?」
「動物化したばかりだと、過剰に暴れるときがあるの。今回は急だったし、ようすを見ていたんだけど、このようすなら、もうつけられそうね」
いまは、二時間目が終わって、三時間目との中休み。二十五分の休み時間で、小学生はできることがたくさんあって、普段だったら切子もひとりで学校の探検に出かけている。でも、今日に限ってはシスター・ルチアに呼び止められ、こうして奏山さんのお世話を習うことになったのだった。
教室には、読書の好きな子がふたりと、神田さんたちのグループしか残っていなかった。いつものことだ。神田さんたちは楽しそうにひそひそ話をしていて、ときおりこちらを見てくる。シスター・ルチアは気にもしていないようだけれど、切子は緊張して胸がばくばくした。一挙一動が見られているのだ。
「まず、くつわをつけてあげなくちゃね」
「くつわ?」
シスター・ルチアは、ロッカーの上に置いた黒いバッグをごそごそと探りはじめた。ぽいぽい、いろんな用具を出しながら、話を続ける。
「知らない? さるぐつわ、とか言うじゃない。四年生の国語の教科書の、物語の文章に出てこなかったかしら、ほら、昔話の悪い盗人の……」
四年生の教科書のことなんて、切子はさっぱり覚えていない。というか、もう五年生になってひと月も経つのに、そんな大昔のことをシスターが唐突に話し出すことに、すこし戸惑ってさえいた。おとなは、いつでも時間の感覚がおかしい。
シスター・ルチアの準備が、ひと通り終わったようだった。
「田辺さん。持ってみて」
金属で、黒くて、ずっしりとしている道具。全体的には、ボールを斜めに切ったようなかたちをしている。ねじれたり、曲がっていたり、歪んでいたりして、複雑そうな道具だ。
切子はシスター・ルチアを見上げた。
「これが、くつわ?」
「そう。これをいまからお馬さんにつけます」
「……奏山さんに?」
言ってしまってから、しまったと思った。でもなにに対してそう思ったのか、自分でもわからなかった。おそるおそる視線を動かしたけれど、馬となった奏山さんは――虚ろな目をして、こちらの話なんか聞いてもいないようだった。切子は、ちょっとほっとした。もしかしてだけど、馬になってしまうと知能も馬並みになるのだろうか。
「お馬さんに」
シスター・ルチアは、朝のように奏山さんとは呼ばなかった。なぜだか。
「くつわを、まずはお馬さんの顔に、被せてみて」
「顔に?」
ぎょっとした。だって、その顔は、奏山さんなのだ。小学校でずっと知っていた奏山明日美さんに、この変な装置を被せる?
だけれどシスター・ルチアは、切子の反応を別の意味で取ったようだった。
「だいじょうぶよ。なだらかになっているところが、あるでしょう。そこをまず鼻に合わせてね……そう。そうそう。よくできました」
なるべく馬の顔を直視しないようにして、作業を終わらせる。
シスター・ルチアは手早い動きで、あっちにある紐や、こっちにあるベルトなんかを引っ張って、あっというまに奏山さんの顔にくつわを固定した。
何本もの黒い紐やベルトで締めつけられた奏山さんの顔は、それだけでまったくべつの存在に見えた。切子にはうまく言えなかったけれど、でも、とにかくすごく人間らしくなくなった、とは思った。
「次は、鼻輪をつけてあげましょう」
「鼻輪?」
「三年生の校外学習で、牧場にいったとき、お馬さんや牛さんがつけてたじゃない。覚えてない?」
「鼻にぶらさがっていたやつですか?」
「そうよ。これはちょっと危ない作業だから、先生がやります。田辺さん、よく見ててね」
シスター・ルチアは銀色の円形の物体――鼻輪を取り出すと、ためらいもなくその鼻に通した。ぱっちんという軽快な音とは対照的に、奏山さんは大きく呻いた。うー、うーっと、抗議するような目をして、信じられないほどだらだらと涙を流している。
「先生、奏山さん嫌がってます」
またとっさに奏山さんと呼んでしまった。けれども今度はあまりしまったとは思わなかったのは、当の奏山さんが呻いて泣いているからのような気がした。これもなぜだか、切子にはわからなかったけれど。
「鼻のあいだに穴を開けたからね」
「えっ、それってぜったい、痛いじゃないですか」
切子は思わず自分の鼻を触った。自分まで、つん、と痛いような気がしてしまったのだ。
奏山さんの痛みはどれほどだろう。
「最初は、痛いのよ。でもじきに慣れるわ。ああ、そうだ、田辺さん。さっそく、お世話をお願いしていい? その鼻輪、なんどか引っ張ってみて」
「……えっ」
「もうすぐ休み時間終わっちゃうし、先生、あとは、くらとかあぶみとか、つけちゃうから。鼻輪ってちゃんとつけないとね、激しく動いたときとかたまに取れちゃったりするの。だからしっかり引っ張って、取れないってことたしかめてあげて。……できるよね?」
切子は曖昧にうなずいた――やりたくなかったけれど、先生が言うなら、やるしかない。
そっと、手を伸ばした。
銀色の鼻輪は、ふれると思いのほか冷たくて、太くて――こんなものが鼻の真ん中に穴を開けて通されたんだと思うと、ぞっとした。
「奏山さん」
痛みに、滲んだその目に。恨めしげに、それでいて、怒りの色を浮かべて――奏山さんの目は、切子を睨みあげていた。
その目は、なにかを表明するその目は、切子や五年生のみんながよく知っている、奏山さんのままだった。普段だったら、奏山さんはここから、ひとこと多い。ねえ。言いたくないんだけどさあ。あんたさあ。あのさあ――。
心臓が、きゅっと縮んだ。
嫌なことを、思い出したくはない。さっさと、済ませてしまおう。
「奏山さん。ごめんね」
かたちだけ、謝ると。切子は鼻輪をぐいと引っ張った。
くぐもった悲鳴が、切子の行動を非難していた。
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