第4話 名前で呼んで


 

 そこにはステージ上でヴァイオリンを演奏している女性がいた。瑠璃色の肩出しドレス。スレンダーなその出立いでたち は桜だとわかった。漆黒のロングヘアはエキゾチックな彼女の顔立ちによく似合う。


 その後ろでピアノを弾いている男性は、大柄で亜麻色の髪。見た目からして日本人ではなさそうだった。


「桜姐さんと私のダーリンだよ。よく見てみな」


 少し画質の悪いそれ。古いものなのだろうか。


 蒼は食い入る様に画面を見つめた。桜が動くと男性も動く。ピアノ伴奏の男性は、桜の呼吸に合わせているのだと気が付いた。二人の間には当事者同士ではないと理解できないような雰囲気が漂う。


「これって」


 そうだ。先日、蒼が目撃した関口とユリカのような雰囲気なのだ。


「ミハエルは最高の相棒だよ。チャイコフスキーを乗り越えられたのも、彼のおかげだ。——だけどね。蒼。あたしはこいつに恋愛感情なんてひとつも持ち合わせたことはないよ。もしまた音楽をするなら、絶対にミハエルとペアを組むだろうけどね。恋愛をするなら、別に男がいるからね」


「別な男って……圭一郎さん、ですか?」


 蒼の問いに桜は笑い出した。


「あんた! 過去の恋に引きづられるのは男だけさ。やだねー。これだから。あたしにはいい男がついているじゃないか。楽器はからきしダメだけどさ。音楽に対する情熱と同じくらい、あたしを大事にしてくれる男がね」


「それって……」


 ——野木さんのこと?


「蒼。いいかい。あの子は、あれであんたのことしか見ていないよ。ケルンは、相当準備に時間をかけないと厳しいんだ。一ヶ月の長丁場コンクールなんて、チャイコフスキーと同じ様なもんさ。それをあの子は、半年で、しかもファイナルに残るためにチャレンジするんだよ。こんな無謀なことをなぜするのか。あんたならわかるだろう?」


 関口は言った。今回の件は自分のためだと。世界に飛び出したい自分のためだと。いいきっかけだと笑っていた。だけど——それだけではないってことも、蒼は理解していた。


 関口が焦っているのは知っている。いつまでも蒼に生活費を払わせている自分を不甲斐ないと思っているということだ。早く一人前になりたいという気持ちはそういったところからも来ているはずだ。


「あの子は相当イカれてる。あんたにね。わかってやりな。音楽家はね。不器用な奴ばっかりだよ。あの夜のヴォカリーズ。あれはあんたのことを思っていないと、あんないい音出せないよ」


 蒼は言葉を失って、ただそこに座っていた。隣にいたユリカは頬杖をついてにやにやと笑っていた。


「独りよがりっぽいけどさ。蛍はいいセンス持っていると思うよ。恋している音だったよ。あいつの音」


 ずっと知っていたくせに。自分で逃げていた。関口は、ずっと蒼のことを好きだと言ってくれていたじゃないか——。


「おれ。あいつに謝らなくちゃ。し、信じてあげられないって。おれ。最低で——」


 蒼がそこまで口にした時。重々しい古びた入り口の扉が開いた。はったとして顔を上げると、そこには——関口がいた。


「蒼——……っ」


 関口は持っていた鞄を落とすと、すぐさま蒼の眼前までやってきた。その形相は怒りに満ちている。


「この……バカ!」


 ものすごい大きな声で怒鳴られたせいで、思わず目をぎゅっと瞑った。 


 ——叩かれる?


 そう思った後。その衝撃は来ない。蒼は関口に引き寄せられて、力強く抱きしめられていたのだ。


「このバカ。蒼のおバカ。本当におバカ……」


「関口……」


 耳元に感じる彼の温もりがじんわりと心に染みてきて、涙が零れた。


「ご、ごめん。ごめんなさい……」


 謝罪の言葉が一度洩れ出ると、それはせき切ったようにあふれ出した。蒼は大きな声で泣いた。


 こんなはずじゃなかったのだ。あの晩——。関口に自分の気持ちを伝えようと思った。たったそれだけのことだったのに。なのに、こんなことになってしまった。自分自身が浅はかで、愚かしくて、嫌になった。


「帰ろう。家に帰ろう。蒼——」


「うん……」


 蒼の頬を伝う涙を、関口は指でなぞる。そして、蒼を再び抱きしめた。


 ——帰ろう。あの家に。おれたちの家に。



***



 桜とユリカに挨拶をして、それから関口の車で二人の家に帰った。関口は、気持ちが抑えられないのだろうか。まだ明るいというのに、玄関先に入った瞬間。蒼の肩を押したかと思うと、壁に押さえつけて唇を重ねてきた。


 ずっと恋焦がれてきたのだ。きっと。こういうこと——。


 蒼は素直にその口づけを受け取る。関口の背中に手を添えて引き寄せると、彼は余計に深く口づけをした。今までの口づけとは違う。唇の間から入り込んでくる舌は、関口の味がした。目の前がチカチカとして、心臓がどきどきと鼓動を速めた。


「蒼……。好きだよ。ずっとそばにいて欲しい。いなくならないで。僕の世界が終わってしまう」


 キスの合間に囁くその声は、懇願しているようにも聞こえる。自分がいないとダメなんじゃない——。

 

 蒼は必要とされていると実感して、心がじんわりと熱くなった。そして、思わず彼の名を口にした。


「関口……。けい


「そう。名前で呼んで。蒼」


 鼻先がくっつきそうな距離で、お互いの視線を確認する。関口の虹彩こうさいに映っている自分を見つけると、気恥ずかしい気持ちになった。


「おれ、蛍が好き。そう伝えようと思って、あの夜、ラプソディに行ったんだけど。ユリカさんとの演奏を見たら、自信がなくなっちゃったんだ……」


「彼女とはなにもないよ。いい音楽家だとは思う。だけど、彼女は——」


「聞いた。桜さんたちからみんな聞いた。ドイツに旦那さんがいるって。おれの勝手な思い込み。被害妄想だったって」


 涙の跡を関口は舌で舐め上げてくる。蒼は「くすぐったいよ」と返した。


「ごめん。でも、ユリカさんとあんなに気持ちよさそうに音楽を作っているのを見ると、なんだか不安になるんだ」


「僕は蒼だけがいてくれればいいんだ。ねえ。蒼。僕のそばにいてくれるの? ずっとだよ。ずっと」


 関口は真剣な眼差しでそう言った。蒼はその視線から目が逸らせない。じっと見返していると、ふと関口がその瞳の色を弱めた。


「でも嬉しいな。だって。それって嫉妬したってことでしょう? 彼女に嫉妬した? 僕を取られるって思ったの?」


 関口にそう問われると、耳まで熱くなる。


「ち、違う——」


「違わないでしょう? その次の日だってそうだ。僕と彼女との関係性を勘ぐって」


「蛍って、本当に性格悪いよね!」


 蒼がそう叫んだ瞬間。チリチリと小さい鈴の音が響く。蒼は驚いて視線を巡らせてから、そこに真っ黒い子猫が座っていることに気が付いた。黒猫は真っ赤なリボンを首に巻いていた。


「え、猫?」


「蒼に似ているでしょう? そこに落ちてた」


「落ちてたって……」


「蒼みたいじゃん。僕が拾わないと、蒼は生きていけない。ほら。今回だって、そうでしょう?」


「おれは捨て猫なんかじゃ……わわわ」


 関口は蒼の返答など、待つ気はないらしい。蒼の膝裏に腕を回すと、一気に抱え上げる。


「お姫様抱っこも時にはいいんじゃない」


「おれは乙女じゃない」


「こんなに薄汚れちゃって。お風呂で綺麗にしてあげよう」


「い、いいです! 一人でやります!」


「今度は、シェアハウスって言うよりも、同棲だね」


「あ、あのね。あの……」


「蒼。僕は嬉しいんだから。ねえ、ずっとずっとお預けだったじゃない」


 上機嫌の関口と、戸惑っている蒼とでは、勝敗は決している。蒼は成されるがままだ。関口が歩けば、子猫もついてくる。チリチリという鈴の音は新鮮で、蒼は思わず猫を見下ろした。その猫は、蒼の瞳と同じ色をしているのかも知れない。


 ——おれの居場所はここでいいんだよね?


「ニャン」


 小さく鳴いたその声に、蒼は笑みを浮かべて関口の首にしがみついていた。




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