第3話 桜の過去



 桜が作ってくれたサンドイッチは、なんとも飾り気もない。ただ食パンにハムとスライスチーズ、そしてレタスを挟んだそれだけのものだった。だが、蒼にとったら、久しぶりのちゃんとした食事だ。それは、蒼の心にじんわりと浸透してきた。


「桜姐さん。なんでけいはこいつが好きなの? こんなのどこが? みすぼらしいじゃないの」


 サンドイッチを頬張っていると、隣で同じく食事をしていたユリカが蒼を見下ろした。


「関口は、おれのことなんて……」


 そう言いかけると、すぐに桜の拳が頭に飛んできた。

 ゴツンという鈍い音が響く。


「桜さん……痛いんですけど」


「痛いって感じるなら生きている証拠。あんたねえ。いい加減にしなさいよ。あんたが一人で時間を止めていたって仕方がないことだよ。いや応なしに時間は過ぎて、周囲の人間たちは変わっていくものだ。あんた、それでいいの? いつまで自分の中に閉じこもれば気が済むのさ。そんなことしていたって時間の無駄なんだ。私みたいになっちまうよ」


 桜の言葉は鬼気迫るものがある。蒼はサンドイッチを持ったまま、固まってしまった。


「桜さん……」


 彼女は煙草に火をつけると、視線を逸らした。


「私はねえ。子どもの頃から手先が器用でね。ヴァイオリンを弾くことに関しちゃ、誰にも負けなかった。神童ってもてはやされて、小さい田舎で育ったくせに、東京に出る頃には鼻高々だったよ。そして、事実そうだった。出るコンクールは全てグランプリ。どこの音大に入るだの、どこに留学するだの、周囲から引っ張りだこだった」


 ——だけどね。世界はもっと広かったんだよ。


 桜はそう言った。


 彼女の話をまとめるとこうだ。


 桜は東京の音大に進学し、そこで、自分と対等、もしくはそれ以上の逸材たちに出会ったのだ。その中の一人が——関口圭一郎。関口蛍の父親だ。


 彼は当時から異才を放っていた。人を惹きつけてやまないカリスマ性。突拍子もない発言や発想が湧いてくる奇想天外な思考回路。そして、整った顔立ちに、針金のようにスタイルのいい容姿——。


 学内の女子たちは、みなが彼に憧れ、そして恋をしていたのだ。田舎者だった桜も然りだ。今まで自分に相応な男など、この世の中にいるとは思ってもみなかったのに。関口圭一郎は違っていたのだ。


「笑っちゃうよね。私も若かったんだ。あの男が好きすぎて堪らなくなった。だけど、私の大切なもう一人の人間が、あの男に恋焦がれていたんだ。それがかおりだ。宮内かおり。蛍の母親。そして、圭一郎の愛妻だ」


 蒼は黙って桜の話を聞いていた。ユリカもだ。二人はじっとカウンターに座っていた。


「かおりって子はね。もう『超絶』って言葉がつくくらいの天然なんだよ。育ちが良くて、生まれてからこの方、なんの不幸も味わったことがないんじゃないかってくらいにね、彼女の生きている世界は全て幸福って言葉にあふれているような子だったんだ」


 蒼は先日。東京の関口邸で会った関口の母親である宮内かおりを思い出した。確かにそうだ。彼女の周囲には、明るく温かい空気が取り巻いていた。今、この目の前にいる桜とは正反対。かおりと桜は光と影みたいに思えた。


「私はね、大好きなんだ。かおりが。彼女といると、自分まで幸せが伝染してくるんじゃないかってね。だから、かおりが圭一郎を好きだって言った時。圭一郎とかおりの間で悩んでしまった。私はどうしたらいい——? チャイコフスキーコンクールの時。私はそんな精神状態で挑んだ。その苦悩が、いい方に出たんだろうね。一等賞をもらったよ。でもね。気が付いた時には、かおりと圭一郎は付き合っていたんだ」


「桜姐さんは男をとるつもりだったの?」


 ユリカが問いかける。桜は首を横に振った。


「いや。私はかおりだった。もちろん、圭一郎は好きだ。だけど、友人っていうのは、そうそう出会えるものじゃない。世の中に男は星の数ほどいるじゃないか。そう思った。思ったんだけどね。遅かったんだ。私が決めたんじゃない。時間がそうさせたんだ。蒼、わかるかい? 私は結局、なにも決めていないんだ。状況がそうなってしまっただけだ。この意味、わかるかい」


 ——自分で決めたんじゃない。自分で決めることすらできなかったってこと?


 真剣な気持ちで桜を見返すと、彼女は笑った。


「自分で決めたことには落とし前がつくってもんだ。だけど、どうだ。私は決めるチャンスを逃したんだ。コンクールの忙しさにかこつけて。自分で決めてこなかった人間は、いつでも惑う。あの時、こうすればよかったのだろうか? いや、こっちの選択肢もあったのではないか? 結局、私は決めていない。——そう。いつでも誰かのせいだ」


「いつでも、誰かのせい……?」


「あんたは決めたのか。自分の気持ち」


「き、決めたんです。でも、決めて、ここに来たら……」


 蒼はユリカを見る。


「え! なあに? 私のせい?」


 彼女は心外だとばかりに顔をしかめた。


「なんでよ~。私、関係ないじゃん」


 蒼はそこではったとした。確かにそうなのだ。彼女は一つも悪くないのだから——。ただ、自分がそう思っているだけの話だ。


「あのねえ。言っときますけど。私は結婚していますからね。ドイツにダーリンがいるんです。あんな甘ったれの頼りない坊やなんて、こっちから願い下げよ」


 ユリカの言葉に思わず桜を見た。桜も笑う。


「私の現役時代の相棒ピアニストの奥さんなんだよ。ユリカは。蛍になんて、微塵も魅力感じていないだろう? ユリカ」


「あんなの赤ん坊みたいなもんでしょう?」


 女性二人の会話に、蒼はなんだか気が抜けた。


「ユリカさんはそうでも。……関口はユリカさんのこと、好き、かも……」


 そう言った瞬間。桜の拳がカウンターを叩いた。そこに置いてあった皿が振動で跳ね上がる。蒼は思わず首を竦めた。


「あんたのこと好きって言ってくれる男を信用しないだなんて、随分薄情なんだねえ。蒼は。そんな人間だと思わなかったよ! 確かに音楽家にしかわからない意思疎通っていうのがあるもんだ。蒼は感受性豊かだからね。そういうところ、感じ取ったのかも知れないけどさ。それはそれ。これはこれだ」


 彼女の言葉は、臆病な蒼の心に突き刺さった。


「ユリカ。あれ、見せてやりなよ」


 ユリカはポケットからスマートフォンを取り出した。なにやら操作をした後、画面を蒼に突き出した。



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