第2話 救済





 あの日。ユリカが自宅にいたのを見て、蒼はショックだった。

 ただ、ただ。関口に裏切られたような気持ちに陥ったのだ。


 ——おれのこと好きっていったじゃない。


 やっと自分の気持ちに気がついて、関口に伝えよう。そう思った矢先の出来事で、混乱してしまったのだ。思考が定まらないと、人間は身動きが取れない。関口との家を飛び出したものの、行く当てもない蒼は、ふらふらと町を彷徨った。そして、とある公園で一晩を過ごしたのだ。


 次の日もそこにいた。実家にも帰れない。職場にも顔を出せない。関口のところにも帰れない。蒼には頼れる人間なんて、この世の中に誰もいなかったのだ。


 その日の夕方。同じ公園のベンチで横になっていると、声をかけられた。


「蒼じゃねえか?」


 そこには、ラプソディの常連客である野木がいたのだ。野木は営業職だ。顧客との商談の合間に、この公園で時間を潰すことがあるのだといった。


 彼は蒼の様子を見て、事情を汲んでくれたのだろう。詳しいことは聞かずに、自分の家に蒼を連れてきてくれたのだった。そこからは、野木の世話になりっぱなしだ。


 着の身着のままで出てきてしまったおかげで、薬など持ってくるはずもない。どこからか、野木が調達してくれた吸入薬を使って、なんとか凌いでいたのだった。


 だがしかし。いつまでもこうはしていられないのだ。


 職場のことも気になる。


 それに、関口はどうしているのだろうか?


 ——どうせ、お邪魔虫のおれがいなくなって嬉しいに決まっている。


 ラプソディで、ユリカと曲を奏でる彼を見た。野木がラフマニノフのヴォカリーズという曲だと教えてくれたが、そんなことはどうでもいい。ただ切ない、誰かを恋焦がれているかのような旋律を、あの女性と視線を合わせて弾いている関口の顔が脳裏から離れないのだった。


 ——おれでは、絶対に関口の世界には入りこめない。


『もしかして、君が邪魔しているの?』


 ショルティの声が脳裏に響いた。


 ——関口が思いっきり音楽をすることができないのは、おれのせいなの?


『ケイは蒼が日本にいるから外に出られないの? ねえ。ケイとアオはどんな関係なの?』


 ——わからない。おれは関口が好きみたい。関口もそうだって……だけど。本当にそうなの?


 自分にはなにもない。なんの取り柄もない。音楽のことなんて、さっぱりわからない。


 ——関口には


 それに引き換え、ユリカはいい。きっと曲づくりから、音楽家の苦悩も理解してくれるだろう。すらっと背筋の伸びた、目鼻立ちのぱっちりとした美人だ。ショートカットにしている髪型も、中性的だが、それがまた彼女の魅力を引き出していると思った。


 関口は男性が好きだと言っていたが、もしかしたら、あのボーイッシュな感じであれば、ユリカは十分に恋愛の対象であると思ったのだ。


『男だからって誰もいいわけじゃないんだけど』


 ——そうだよね。おれは男ってだけで、なんの取り柄もないもの。


 蒼はのそのそと布団から這い出す。そこには、野木が用意してくれたTシャツとズボンが置いてあった。蒼には少し大きいようだが、いつまでも寝てばかりはいられない。もぞもぞと時間をかけて、着替えをする。Tシャツには、不細工な猫のイラストが描かれていた。


 ——まるでおれみたい。


 蒼は惨めな気持ちと、浮かない気持ちと、罪悪感と……負の気持ちでいっぱいになっている自分を持て余しながら、野木の家を後にした。



***



 昼間のラプソディの周囲は閑散としていた。ランチ営業をしている店も少ない。日が落ちてから見る風景と、日があるうちの風景とは、こんなにもかけ離れて見えるものかと、改めて理解した。


 ラプソディの木製の重い扉に手をかけると鍵はかかっていなかった。そっと扉を押して、中を除く。扉に据え付けられているくぐもった銅製の鐘が小さく音を立てた。


 中からはピアノの音が響いてきている。どこか、胸の奥がざわざわとするような……小刻みな低い音は、どこか自然を彷彿とさせる。風の音? それとも水音……? 波音?


 蒼はじっとその位置で固まっていた。ドドドドと低い小刻みなリズムの音の上に、一体、手が何本あるのだろうかと思うくらい、たくさんの音が重なり合って響いている。


 ——これはどういう曲なんだろうか。


「おや。仕事する気になったのかい」


 蒼の存在に気が付いたのか、桜はタバコを銜えたまま、グラスを拭いている手を止めて、蒼を見ていた。


「——あの。おれ」


「リストだよ。よくできた曲だよね。左手で波の音。まるでパオラが海の上を歩いている様が浮かぶようだよ。——まったく、薄汚れているね。救いが必要なのは、関口じゃなくて、蒼のほうだね」


 ——海の上を歩くってなに? 聖書とかそういうやつの話? ファンタジーなの?


 蒼が口ごもっていると、ピアノの音が止み、ユリカが声を上げた。


「あー。あんた!」


 蒼は驚いて、思わず店内から出ようとする。しかし、彼女のほうが早い。ユリカは蒼の元に駆け寄ってきて、店の入り口をふさいだ。


「あ、あの。ごめんなさい。おれ、出ますから」


 ——お願いだから。そっとしておいて。もう、話しも聞きたくない!


 しかし、彼女はそれを許さない。


「なにバカなこと言ってんの。ねえ、桜姐さん。なんなの。このいじけ虫は。せっかく薬取ってきてやったのにさ。お礼もないわけ? あー、やだやだ。けいもそうだ。日本の男って、本当に男なの? っつかなに。そのへんちくりんなTシャツ。趣味悪!」


 ——これは野木さんの趣味だし。おれのじゃないし。


「ユリカ。あんまり責めるんじゃないよ。可哀そうだろう?」


 桜は豪快に笑っていたが、蒼は笑う気持ちにもなれない。


 ——蛍? 名前で呼ぶんだ……。


 蒼はただじっと小さくなって固まっていた。桜がため息を吐く。


「ユリカ。あんたのその勢いは、日本の男には強すぎるんだよ。少しはセーブしてやりな」


「だって。うじうじしちゃってさ。なんなわけ? なんだか私が悪者みたいじゃん」


「実際、そうだろう? なんでホテル抜け出すんだよ」


「え~」


 ぶつぶつと不満を述べるユリカを無視して、桜は蒼を見ていた。


「蒼、座んな。飯食わせてやるから」


「——桜さん……」


「ほら、いいから。ユリカもいい加減におし。あんたにも作ってやるから。二人で座りなさい」


「は~い。ほら、行くよ。グズ」


 ユリカに背中を押されて、蒼は小さくなったまま、カウンターに腰を下ろした。




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