第1話 生きるということ


 蒼が消えて四日。このへんてこな猫が来て二日が経った。


 『ミーミー』と小さく鳴く猫の声にはっと目が覚める。


 黒い捨て猫は、ごわごわとした毛を生やしていた。動物は飼ったこともない。誰かに譲り渡そうと思いつつも、拾ってしまった手前、どうしたものかと思案した。


 昨日は近所の動物病院に連れて行った。受け付けで、名前を書くように要求され、仕方なく『関口けだま』と書こうとして、間違えて『関口けだも』と書いてしまった。


 訂正しようかとも思ったが、「あら、けだもちゃんって、なんだか可愛いですね」と受付の中年女性に言われてしまうと、間違えたとは言えなかった。


 けだもは少し栄養が足りないとのことだが、すくすくと成長していると獣医師が言った。子ども用の餌を与えること、排せつの世話をすることなどを指導され、ペットショップに行って、けだも用のグッズを購入してきたのだった。


 関口の財布は寂しいことになっている。この家の財務省は蒼だ。彼が全てを管理していた。関口はおこずかいをもらって暮らしているという身分なのだ。


「いやさ。別に。お金は、どうだっていいんだけどね」


 蒼の部屋を覗くと、特になくなっているものはないらしい。喘息の薬が消えたが、それも彼が戻ってきたのかどうかはわからない。だが、それ以外の荷物がそのままになっているということは、完全に消えるつもりはないということかと内心安堵しながらも、それでも姿を現さない彼にヤキモキしているのは確かだ。


 薄暗い蒼の部屋を後にして、居間に戻る。


 出会ってから数日だというのに、けだもは、関口に懐いていた。縁側に座り込むと、隣にやってきたけだもは、コロコロと転がっている。


 ——蒼。どこいっちゃったんだよ……。


 真っ黒で、目だけがきょろきょろとしているけだもを見ていると、蒼が彷彿とさせられた。人差し指でけだもを突くと、彼は嬉しそうに目を細めて、お腹を出した。撫でろということだろうか。こちょこちょとくすぐってみると、けだもは満足そうに喉を鳴らした。


 ——けだもと遊んでいる場合じゃないんだけど。


 関口は空を仰ぎ見る。


「蒼の奴。今日も休みだぜ」


 先ほど星野から連絡があった。


 ——まさか。本気で、どこかに消えてしまうつもりじゃないだろうな……。


 スマートフォンには桜からもメールが届いていた。


『このサボり魔。さっさと店に来い。クズ野郎』


 蒼が出て行った原因は自分にある。しかし関わったユリカとも顔を合わせにくいのだ。あれから、関口はラプソディから足が遠のいていた。


「僕の悪いクセだよね。逃げるって。でも蒼だってそうだよ。ねえ。けだも。どこにいっちゃったんだろうね」


 首元をこちょこちょと撫でると、けだもは「にゅう」と変な声を上げた。



***



 ——最低だ。


 喉に違和感を覚えて咳き込んだ。手を伸ばして吸入薬を吸い込む。薬の残量もわずかだ。


 なにも持たずに家を飛び出したから、薬もそのままだったのに。どこからか、野木が持ってきてくれたのだ。


 いつまでもこんなことをしていられないはずなのに——。


「おい。まだ寝てるのかよ。蒼」


 蒼は、もぞもぞと布団から顔を出すと、そこには精気のない、とろんとした目をした野木がいた。彼は少しくたびれたスーツ姿だった。


「野木さん。仕事ですか」


「お前さあ。世の中の大半の人間は、こうして朝起きて、飯食って、仕事に行くんだよ。それが生きるってことだろう? おれもそれな」


「そうです、よね」


 ——もう四日だ。こんなことしていられないのに。


 蒼は躰を起こしてから野木を見据えた。


「あんなざまじゃ、放っておけないからよ。仕方なしに拾ってきたけどさ。動けるんなら働けよ。仕事はどうすんだよ」


「……数日は休むって伝えたんですけど。もう許してもらえる範囲じゃないっていうか」


「お前のところ、不規則なシフトだからな。お前いなくて、困っているんじゃねーの?」


「……おれなんていなくても。大丈夫です。みんなすごい先輩たちですから」


 蒼の言葉に、野木は舌打ちをした。


「そんな意味じゃねーよ。バカでもチョンでも、頭数が必要なんだよ。頭数」


「……確かに。いるだけなら……できます」


「本当、お前、バカだな」


 野木は大きくため息を吐いた。


「意味不明な欠勤が続けば、公務員だって首切られるんだぞ。辞めるのか? 仕事」


「でも、星音堂せいおんどうに行ったら、関口が……」


「関口から逃げてどうすんだよ。お前。地の果てまで逃げるつもりかよ」


 野木の言葉は、蒼には痛烈に響く。こんなことをしていても仕方がないと頭ではわかっているのに。どうしたらいいのかわらかないのだ。


「ともかくよ。暇なら仕事しろ。桜のところ、日中だって仕事はあるんだ。掃除くらいできんだろ? ちゃんと働け」


 野木は菓子パンを蒼に投げつけた。


「そしてちゃんと食え。そんな頭じゃ正常な判断はできっこねーぞ。おれは仕事に行ってくるからよ。じゃあな。鍵は開けたままでいいぞ」


 彼はそう言うと、玄関から姿を消した。



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