第7話 捨て猫



 それから。

 関口は蒼の足跡をたどろうと町に出た。


 しかし、熊谷蒼という男ほど、行動範囲の狭い人間はいない。一緒に住むようになってから、蒼の生態を観察していたが、彼が出かけるのは、お気に入りの古本屋に行くくらいの話だ。友人はいない。職場と自宅との行き来ばかり。


 蒼の実家である熊谷医院にも立ち寄った。病院の受付にいたマトリョーシカみたいな女性——梅宮は、蒼は来ていないと答えた。自宅にも寄った。陽介がいたら殴られそうだと思いつつも、チャイムを押すと、母親である海が出てきた。彼女には心配をかけたくはない。ただ、蒼が来ているかとだけ問うてみたが、やはり帰宅はしていないという答えだった。


 こうなるとお手上げだ。蒼が寄る場所がわからない。職場には数日休むと連絡が入ったという。ということは、職場の人間のところに顔を見せることはないということだ。


 関口は大きくため息を吐いた。スマーとフォンには、桜から何度も連絡が入っていた。


 ——今日は演奏なんてする気持ちになれないよ。桜さん。


 人が行き交う夜の街を車で走らせてみても、蒼が見つかるわけなどなかった。


「蒼……どこいっちゃったんだよ……」



***


 

 蒼が消えてから二日が経過した。それでも蒼は見つからなかった。関口は定期的に蒼が立ち寄りそうなところに足を運び続けたが、まったく手がかりはなしだった。星野からの連絡も同様である。


 しかし今朝。蒼の使っていた部屋を見渡すと喘息の薬がなくなっていることに気が付いた。もしからしたら、自分が不在の時間を狙って、取りに戻ったのではないだろうか? そう思った。


 ——蒼はきっと、この辺りにいるはずだ。


 ホテルとかに泊まっているのかも知れない。そう思って、市内のホテルも当たってはみるものの、個人情報の壁があって、素人の関口が情報収集をするということは無理難題だった。


 その間、すっかり居候をしているユリカは、マイペースに暮らしているようだった。日中はごろごろとしていて、夜になるとラプソディに出かけていく。連日のように、誰かとドイツ語での長電話。お気楽な女性だと関口は思った。まるで母親を見ているような奔放さだ。


 もしかしたら、関口の女性が苦手な気質の根っこには母親がいるのかも知れない。そんなことを思っていると、ユリカに声をかけられた。


けい。桜さんのところに行こう。いつまでもじっとしていたって、なにも始まんないじゃない」


「そんなことはわかっているけど」


「私たちにできることは、演奏することだけ。そうでしょう?」


 彼女の言葉は、関口にはずっしりと響いてきた。


 ——僕にはなにもない。蒼を大事にするなんて言っておきながら、蒼の気持ちを一つも理解していなかった。それに、こうなってしまうと無力でなんの力もない、ただの若輩者だ。


 父親のような権力はない。きっと彼だったら、四方八方手を尽くして、蒼を探し出すだろう。実際、行動するのは秘書の有田だが、彼を雇っているということ自体が、圭一郎の持ちえるものでもあるのだから。


 それに比べたら、関口にはなにもない。自分しかいない。その自分もお粗末。惨めで情けない。——いや。自分の情けなさなんてどうでもいい話だと思った。


 ——蒼が戻ってきてくれるなら。僕はなんだってする。


「ほら。蛍。行こうよ」


 ユリカの目は大きくて、ガラス玉みたいに澄んで見えた。濁っていて、堕落しているのは自分だけかも知れない。そんな風に考えてしまうと、なんだか途端に自信がなくなった。


「もうコンクールなんてやめようか」


「え?」


 関口は視線を床に落とす。


「なんの取り柄もない男だ。大好きな人ひとり、大事にできないだなんて。なんてお粗末な人間だ。こんな人間が、コンクールでいい音楽を作れるはずがない」


 ——こんなこと。ユリカに言っても仕方がない。違う。そうじゃないって言って欲しいだけじゃないか……。


 そう思って顔を上げた瞬間。ユリカの平手が関口の頬を叩いた。ピアニストたるもの、腕力は相当だ。女性と言えど、関口の眼鏡は吹き飛んだ。


「——バカだね。本当に。やめちゃいなさい。甘えん坊のいじけ虫は。もう楽器を持つことを止めたらいい。蒼もよかったのよ。こんな中途半端な男。悪いけどね。こっちから願いさげ」


 彼女はそう言うと、居間に駆け込んで、それからキャリーケースを引っ張り出した。


「桜姐さんのところにでも行くよ。もううんざりだわ。だから日本の男って大嫌い」


 ガラガラとガラス窓が音を立てる玄関が開いたかと思うと、ユリカは姿を消した。


 ——みんな出て行く。僕なんて、どうせ……。


 関口は大きくため息を吐いた。それから半分、開いている玄関の扉を閉めようとそこに歩み寄った。すると『みゅ~、みゅ~』と、小さい動物の鳴き声がした。


 玄関を閉めることを諦め、関口は外に出て、目の前の道路を覗き込んだ。


 待っ暗い夜道の片隅に、小さい猫がうずくまっていた。真っ黒な毛は、薄汚れていて、猫をみすぼらしく見せていた。


 まるで傷ついた蒼みたいだ。


「なんだ。お前。家族とはぐれたのか?」


 そっと手を伸ばして抱きあげると、それは関口の両手の平に乗るくらいの大きさだ。力尽きているのだろうか。抵抗する気力もない様子で、猫は目を瞑ったまま鳴いていた。


 関口は周囲を見渡してから、再び猫を見下ろした。猫にかまけているなら、蒼を探すべき。そう思ってはいても、目の前で置き去りにされている猫を放ってはおけない。


 関口は猫を抱えて自宅に戻った。








— 第六曲 了 —

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る