第6話 鈍感な坊や
「お疲れ様です」
「お、関口じゃないか」
嬉しそうに腰を上げた尾形より先に、星野が駆け寄って来る。そして、関口はそのまま首に腕を回されたかと思うと、事務室から連行された。
誰もいないホワイエのベンチに腰を下ろした星野は、開口一番に「お前、蒼になにした?」と言った。
「え?」
「え、じゃねえ。お前。蒼になにした?」
「なにって。なにも」
そうだ。関口からしたら『なにも』である。しかし、星野はいつも見せることない厳しい視線を関口に寄越した。
「あいつ。体調悪いんだ。寝てねえみてえだったぞ。お前がついていながら、なにしてやがる。あんまり顔色も呼吸状態も悪いから、課長が早退させたんだよ。そしたら、さっき『数日休む』って連絡がきたぞ」
「——え?」
——数日休むって、どういうこと?
関口の戸惑いに気が付いたのか、星野は「ち」と舌打ちをした。
「鳩が豆鉄砲食らったような顔しやがって。本当に心当たりねーのかよ」
「……いや。あると言えばありますし。ないといえばない」
「かー。本当にお育ちのいいお坊ちゃまはこれだから嫌だぜ」
星野は椅子をポンポンと手で叩いた。関口はその意図をくみ取り、頷いてから隣に腰を下ろした。
「コンクールの準備で、桜さんがピアニストを見つけてくれたんです。で、昨日はラプソディで試しに演奏したんですが。蒼は来てくれたんですけど、帰っちゃったんです」
「で?」
「で、店閉めてからも、音楽の話で長々とかかってしまって。結局、今朝帰ったんですが、蒼とはすれ違いです」
「酒飲んで、朝帰りなんて、いい度胸じゃねーか」
「そんな。そんな意味では……」
星野は腕組みをして、それから大きくため息を吐く。
「お前ねえ。自覚あんのかよ? 蒼のこと。好きなんだろう? 大事なんだろう?」
「そ、それは。もちろんですよ。僕は蒼が好きだし、大切に思っています」
「じゃあ、なんでそんなに雑に扱うんだよ?」
——雑? 雑ってなんだ。
関口は困惑した。星野の言葉の意味がわからない。自分はいつ、蒼を雑に扱ったというのだろうか?
朝帰りしたこと?
ピアニストと音楽を奏でていたこと?
酒を飲んだこと?
わからない。ピアニストとの演奏は、蒼を守るためのコンクールに向けて必要なことだ。それがいけないのだろうか?
「で、でも。彼女とのことは……」
「彼女って、ピアニストは女か?」
「はい。ユリカって。ドイツにいる人なもので、飾らない感じなんです。ホテルも嫌だって言って、出てきちゃって。今は家にいて——」
「はあ!? お前……っ」
星野は一瞬、手を握る。げんこつをされるのではないかと思って身構えたが、彼はその拳を降ろした。
「いいか。関口。鈍感な坊やなお前にだから言う。これはお前のためじゃねえ。蒼のために言うんだからな」
「星野さん……」
「蒼はその女に嫉妬しているんだ。お前とピアニストの間に蒼は入れねえ。どう頑張ってもだ。音楽の世界にあいつが入るこむことはできねえんだ。あいつはきっと、お前とその女の演奏を聴いて、ものすごいショックを受けたんじゃねえか? それに加えて自宅に上げるなんて……言語道断だろう? いいか。お前は女性には興味がねえ。だから、なんとも思わないのかも知れないが、蒼はそうじゃねえんだよ。蒼の目には、お前とそのユリカって女は意味深な関係に見えただろうよ」
「え! ——そんな。僕は。そんなこと。一つも……」
星野は、一度は下げた拳を持ち上げると、関口の頭を小突いた。
「この馬鹿野郎。一つも思っていなくても、周囲はそう理解するもんだ。蒼のやつ。家出したぞ。きっと。数日休むって、どこに行くつもりなんだか……。喘息酷そうだった。薬持ってるのかよ。実家にでも帰っているならいいが——」
「実家はダメです」
「はあ? お前にそんなこと言える権利あると思うかよ?」
星野の言葉は辛辣だが、それは的を得ているということも理解している。関口は焦燥感に駆られた。まさか、自分の何気ない行動が、蒼を傷つけているだなんて。正直、蒼にとったら、自分はそんな程度だと思い込んでいた節もある。まさか、そんなにも、自分のことで心揺れ動くことがあるだなんて——。想像もしていなかったのだ。
「蒼は繊細だ。わかるだろう? ちゃんと向き合ってやらねーと。あっという間に壊れていく」
「……すみませんでした」
関口は星野に頭を下げた。しかし「おれに言う言葉じゃねえ」と星野は言った。
「おれも心当たり探してみるけど。お前もしっかりな」
「はい」
関口は、もう一度、頭を下げると、星音堂を出た。
——実家? 蒼は実家にいるのだろうか……。
鬱蒼とした木々の間を抜け、駐車場に足を運ぶ。もう夕日は傾いている。
——蒼。どこにいるんだよ。
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