第5話 居場所がない
カタカタとパソコンを打つ音をぼんやりと聞いていると、はったとした。すぐ近くに水野谷の顔があったからだ。
「わ!」
「『わ!』は僕のセリフなんですけど」
水野谷は眼鏡をずり上げて蒼を見ていた。
「ち、近いです」
「近くて悪いですか」
「いえ。……でも、ちょっと苦手です」
「それは失敬」
彼はかがめていた腰を伸ばし、蒼を上から見下ろした。
「体調が絶不調じゃない? 蒼」
「え、そんなことは……」
喉の違和感を覚えて、言葉を止める。それを見ていた星野も「それ見ろ~」と言った。
「おれも思っていたぜ。朝から調子悪りいだろう?」
「……喘息がちょっと。季節の変わり目なもので。すみません。ご迷惑でしたら帰ります……」
——いや。帰れないだろう? 帰るの? あの家に。
「帰ったほうがいいんじゃないか」
「そうだよ、そうだよ」
事務所にいる全員が蒼を見ている。蒼は居たたまれない気持ちになった。
「ほれほれ。有休消化も大事です。帰った、帰った」
それは水野谷の優しだと理解できる。蒼は俯いてから「わかりました」と帰宅の準備をし、それから帰途に就いた。
こんなにも足取り重い帰途は、今までにない。関口は柴田のところに行くと言っていたようだったが……。自宅で顔を合わせることを想像すると気が重いのだ。
——嫌になっちゃう。
自宅前までやって来ると、関口の愛車はなかった。彼が外出しているという証拠だ。幾分、安堵している自分に気が付いている癖に、それに蓋をしてから玄関を開けた。すると——。
視界に飛び込んできたのは、真紅のパンプスだった。女性物のそれは、乱雑に脱ぎ捨てられている。そして——。
「ああ、お帰り。えっと……なんだっけ? そうそう。待って。色の名前だったわよね」
少し掠れているハスキーな声色に、視線を向けると、そこには昨晩、関口と一緒に演奏をしていたピアニストの女性が立っていた。彼女はタオルを被り、濡れた髪を拭いているところらしい。ショートパンツに、ランニング姿。男性の蒼からしたら、悩まし気な露出度だ。
「あらやだ~。そんなに顔真っ赤にしちゃって。可愛いのねえ。えっと。そうそう。思い出した。アオ。アオでしょう? こういうこじんまりした感じがお好みか。まあ、あいつはそういうタイプだね」
蒼はその場に立ち尽くすばかりだが、女性は蒼の目の前にやって来たかと思うと、まじまじと蒼を眺めていた。
「蛍ってさ。口は悪いけど繊細だもんね。細かいことにも引っかかるしね。一晩過ごしてみて思ったけど。まあ、悪い奴ではないよね。少し度胸が足りないビビりだけどさ。男としては悪くない」
蒼は一言も発せられずにいるというのに、女性は独り言のように話を進めていく。
「お風呂借りました。ごめんねえ。私、行くところなくってね。居候させてもらおうかって思って。ほら、日本のホテルって狭いじゃない? もう窮屈でさ~」
——い、居候?
「ねえ。なんとか言ったら? 大丈夫? ってか。こんな日中から仕事帰って来るって、なあに?」
蒼は目の前がぐらぐらとしていた。まるで昨日の夜みたいだ。耐えきれない。
「ご、ごめんさない……っ」
そう言って、家を飛び出した。
——ここは、おれの家じゃない。関口の家だ。
「ああ、ちょっと! ねえ、どこいくの?」
後ろから女性の声が聞こえるが、そんなことはお構いなしだ。
——もうない。どこにも。おれの居場所なんて、どこにもないんだ……。
***
蒼が消えた——。
柴田と室内楽の練習についての相談をしてから帰宅すると、ピアニストであるユリカが肩を竦めて言った。
「だって~。引き留めたんだよ? でもなんにも言わないの。なに、あの子。しゃべれないの?」
「お前の迫力に気圧されたんだ」
「はあ? 本当に失礼だねえ。蛍って。昨日会ったばっかなのに」
「昨日会ったばかりなのに、そんな恰好で僕の家の中をウロウロしないでくれる?」
関口の視線に、ユリカは首を竦めた。
「別にいいじゃないの。日本人の男は、小さいことを気にするから嫌なんだよね。それにしても、蛍。あの子に片思い中なんだね~。
ユリカに悪気がないのは知っている。だが苛立っている今。寛容に受け止められるはずがない。 言葉を押し殺して彼女を見据えると、さすがに関口の気持ちを理解したのだろう。ユリカは「こわ。そんな顔もできんだ」と言って、口を閉ざした。
「うるさいな。僕は蒼を探しに行くから」
「探しに行くって言ったって。どこに? もう仕方ないなあ。私も探すよ。私のせいだって言いたいんでしょう?」
「君はいい。余計なことをしないでくれる?」
「ちぇ~。了解っす」
彼女は細長い指をそろえて、敬礼の姿勢を見せると、さっさと茶の間に姿を消した。
ユリカ・ワグナー。桜が連れてきたピアニストだ。
『ユリカはドイツ在住。日本は慣れていない。あんたのために飛んできてもらったんだ。修羅場潜り抜けている子だからね。頼りになる相棒だと思う』
桜とユリカの関係性はよくわからない。しかし、そんなことはどうでもいい話だ。関口にとったら、有能なピアニストが欲しいだけなのだから。
突然やってきた彼女。桜が能力を評価するだけのことはあった。
昨晩の演奏は、それはそれは関口にとったら、至福の時だった。伴奏慣れしている——とでもいうのだろうか。彼女は関口の息遣い、間合い、こうして欲しいということを瞬時に察知して、臨機応変に音楽を奏でる。伴奏者としては、最高級の人材だ。
だがしかし。問題は彼女の人間性。海外で培われたこの堂々たる風格は、日本の規格には合わない。いや、そもそもの器質だろうか。
今朝、突然にやってきた。ホテルを予約していたというのに、「日本のホテルは狭くて窮屈だ」というのだ。だから、蒼には説明をする暇もなかった。
——いや。蒼がこんなに早く帰って来るなんて思ってもみなかったんだから。
柴田との打ち合わせを終えたら、夕方にでも
昨晩も野木から「蒼が来たけど、帰っちまったぞ」と聞いていた。様子がおかしいってこと。気が付いていたのに。泥酔して、朝帰りをしたうえに、抱きしめて押し倒した。
——あれがまずかったのだろうか……。だよな。そうに違いない。
関口は車に飛び乗ると、大きくため息を吐いた。いくら反省しても、取り返しがつかない。なんとか蒼に会って、話をしなければ。
関口は車を走らせて星音堂への道をたどる。職場に戻っているとは思えないが、確かめずにはいられなかったのだ。
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