第4話 ヴォカリーズ
古びた重々しい木製の扉を開くと、中からは、しっとりとした哀愁漂うメロディが響いていた。いつもは、彼が一人で奏でているはずのヴァイオリン。だが今日は違っていた。ヴァイオリンの音色に合わせて、ピアノの伴奏があったからだ。
しっとりとした、ロマンティックな音色は、艶やかで、どきどきとした。
「おう。こっちこいよ」
目を瞬かせていると、カウンターに座っていた野木に手招きをされた。蒼は、関口の姿を確認しようと視線を遣りながらも、野木の隣に歩み寄ってから、椅子に腰を下ろした。
今日、演奏をしているのは彼一人ではなかった。ショートカットの若い女性がピアノを弾いていたのだ。
「いい音だ」
いつも野次を飛ばしたり、辛口コメントばかりを吐いたりする野木なのに、今日は珍しく目を瞑って音楽に浸っているようだった。
蒼は関口に視線を向ける。どうしてだろうか。弾いている曲が違うから? いつもの関口ではないように見受けられるのは——。
色気のあるその立ち姿に、心がざわざわとする。それに腑に落ちないのは、ヴァイオリンとピアノの伴奏の間にあるその雰囲気だ。言葉には出来ない。しかし二人の間には、確実になんらかの交流が成立している、と蒼は確信した。
「悪くないねえ」
ふと煙草をふかした桜が呟いた。蒼はゆっくりと振り返る。と、桜が説明を付け加えてくれた。
「今度のコンクールでピアノ伴奏が欲しいんだよ。一次審査は、持ち時間1時間のソロリサイタルだ。ユリカは、あの坊やの感性に合うんじゃないかって思ったんだけど、私の予想はドンピシャだ。このコンビは行けるな」
桜がはっきりと言い切るなんてことは珍しいことだ。蒼は余計に不安を掻き立てられた。素人の蒼にだってわかる。
静かな余韻を残し、音が消え去ると、店内は拍手の渦に包まれた。楽器を降ろした関口は、ピアニストの女性に微笑みかける。彼女も艶やかな笑みでそれに応えた。
「あの。おれ。先に帰ります」
「なんだよ。蒼。帰っちまうのか?」
野木はきょとんとした顔を見せたが、それに笑顔で返す心の余裕はなかった。蒼は「すみません」と頭を下げると、バー・ラプソディを後にした。
心がざわついていた。なぜこんなにも不安になるのか? 蒼には理解ができなかったのだ。地震にでも振られているみたいに、目の前がぐらぐらとして足元が覚束なかった。
***
自宅に帰っても心のざわざわは落ち着くどころか、余計に悪化した。夕食を食べる気にもなれず、お風呂にさっさと入ってから、布団にもぐり込む。
しかし到底、眠れそうになかった。目を瞑れば、関口と女性の笑みを交わす様子が脳裏に焼き付いて離れない。眠ったかと思って時計を見れば、時間は一時間程度しか経過していないのだ。
十一時になり、十二時になり、それでも関口が帰宅する気配はない。
——なんなんだよ……。
チクタクチクタクと秒針が動く音だけが妙に耳について不安が募った。
二時。そして三時——。とうとう関口は帰宅することはなかった。
***
「蒼。あーおー」
肩に触れる大きな手の温もりに、はったとして目を開けると、そこには関口の顔があった。
「遅刻しちゃうよ。いつまで眠っているの」
蒼は慌てて躰を起こす。時計の針は七時半を回るところだった。
「あ——っ」
声を上げようとして、喉が鳴る。喘息だ。喉元を押さえていると、関口が鏡台から吸入薬を取って手渡してくれた。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
「ゼェ……ゼェ——だ、大丈夫」
「じゃないみたいだけど」
「平気」
蒼は関口を押しのけて、そのまま立ち上がる。いや、自分としては、そうしたかった。だがしかし——。それは叶わない。伸びてきた両手で抱きしめられると、そのまま、床に押し倒されたのだ。
「せ、関口……?」
「蒼の匂いだ。よかった——」
——全然。よくない。よくないんだよ。関口。
アルコールの匂いのする彼の耳元に鼻を寄せると、なんだか悲しい気持ちになった。
——ねえ。どうして朝帰りなの? 彼女と、どうしていたの?
関口への気持ちを自覚してしまったからこその気持ちなのだろうか? 蒼は関口の肩を押す。
「ごめん。仕事だから——」
「そうだったね。悪い。今日は柴田先生のところに行って——それから……」
関口がなにか言っていたが、蒼は覚えていない。ただ、なんとなく悲しい気持ちがいっぱいで、関口の顔が見られなかったのだった。
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