第3話 過去との訣別
その日の帰り道。関口からのメールが入っていた。どうやら今晩もバー・ラプソディで桜の指導もとい、ヴァイオリンの生演奏を客に提供しているのだろう。夏が近い。もうすっかり蒸し暑くなりかけている夕暮れは、ジリジリと燃えるような夕日だった。
「蒼——」
自転車を押して、通路に出ると、そこには陽介がいた。待ち伏せしていたのだろうか。先日、関口と一緒に実家を訪れて話をした時以来だった。あれから、なんのアクションもなかったし、ショルティとの件があって、すっかり心の片隅に追いやられていたはずのものが、こうして目の前に再び現れたのだ。
蒼は一瞬、心臓が鷲掴みにされたように、動きを止めた。
「陽介……」
彼はかなり躊躇している様子が見て取れた。
——もしかして、関口とのことで遠慮している?
「ごめん。陽介」
蒼は彼が口を開く前に、頭を下げた。
「あの、おれ……」
「付き合っているのか。——あの男と」
陽介の眼差しは真剣だった。あの日から、蒼はすっかり忘れていたというのに、きっと彼は、このことについて思いつめていたに違ないと直感した。
蒼は小さく頷いた。
「うん。——そうだよ。おれは、関口とお付き合いしているんだ」
陽介は、驚愕とも、落胆とも言えない、不可思議な瞳の色を浮かべていた。
「ごめん——」
「演技なのかと思った。おれを拒絶するための」
「ち、違うよ。関口はね。いい奴で。あの。おれが母さんに会えないでいたのに、背中を押してくれたんだ。は、初めてだよ。他人で、家族のことを話たの——」
「それって、恋人なの? 本当に?」
「……そうだよ」
「友達だっていいじゃないの」
「友達、じゃないよ……だって、おれは」
——おれは……関口が好き。好き? 友達。友達とは違う?
星野や吉田とのやり取り。ずっと自分の中でモヤモヤとしていた気持ち。そんなものが入り混じっているのに。言葉として出てくると、少し気持ちが晴れた。
「違うんだ。おれは関口を一人の人間として好きなんだ。家族の好きとも違う。友達の好きとも違う。そして、陽介の好きとも違うんだ」
——ああ。そっか。おれ。好きなんだ。関口が好き。一緒に居たいんだ。
蒼のその視線を受けて、陽介は一瞬、言葉を詰まらせてから、ため息を吐いた。
「わかった。お手上げ。手を引くしかないみたい」
「でも。あの。おれは陽介のことを……」
「もういいよ。そういうの惨めっぽいからヤダ」
「——ごめん」
陽介はそっと腕を伸ばしてくると、蒼の頭を撫でた。
「蒼がね。最初におれの目の前に現れた時。本当にドキドキした。可愛いって。おれ、お前のこと守らなくちゃって本気で思った。その気持ちは嘘じゃない。好きで好きで堪らなくなったのは、思春期になってからだ。お前のことを弟として見られなくなった。ごめん。先に裏切ったのはおれだ」
「それでも、陽介がいてくれたから、おれはあの家で暮せたのかも知れないんだよ?」
「だが、傷つけたのも事実だ。だけど、後悔はしていない」
この気持ちは、きっとすれ違いなのだ。いくら言葉を交わしても、分かり合えないことってあるのだから。
「蒼との関係性が出来て、嬉しかった。満たされたと思った。だけど、蒼は笑わなくなった。なんだかそれが悲しかった。もしかして、取り返しのつかないことをしたんだって、その時に理解したのに——だけど。どうしてもそばにいて欲しかったんだ。そんなものは本当に愛情じゃないって知っていたのにね」
陽介は軽く笑みを浮かべると、蒼の頭から手を離した。
「蒼、笑ってくれる?」
「え?」
「ほら。いつもみたいに——」
急に「笑え」と言われても、そう簡単にはいかない。陽介の心中は計り知れない。本当にこれでいいのだろうかという疑問が浮かぶが、少なからず蒼の気持ちは軽くなった。
「うん」
ぎこちない笑みに違いない。だが、陽介は蒼の笑顔を見て、口元を緩めた。
「なんだか久しぶりだ。蒼がおれに笑顔を見せてくれたの」
「そうかな……そうだね」
「兄弟に戻るってことが出来るのかどうか、自信ない。でも、おれはいつでも蒼の兄として、お前になにかがあれば支えたいって思っている。時間、かかるかも知れないけど。関口ってやつとなにかあったら戻っておいで。それは、兄として言いたいこと。いい?」
「——わかった」
「それにしても! あの関口って奴。まだまだ認めたわけじゃないからね。蒼が養っているんだろう? あいつ。蒼に養ってもらっていて好きなことするだなんて。絶対に認められないな」
「陽介。でもね。関口は……」
「これはね。兄として言いたい。そんなヒモみたいな男。気を付けないといけないよ。蒼に相応しいのかどうか。今度、きちんと評価してやるから。実家に連れておいで」
——そ、そんなの、トラブルの元じゃない。
「蒼と付き合うつもりなら、兄の承認は受けてもらわないと。厳しく審査するから安心して」
——安心できないよ!
蒼は違う意味で背筋が凍る思いだ。これでは、ますます関口を実家に連れて行くことは、避けなくてはいけない事態になったということだ。
「本当は……誰にも邪魔されない、父さんも
「陽介……」
彼の心のうちの葛藤は、蒼には計り知れない。
「直ぐにはこの気持ち。整理できないんだ。物分かりの悪い兄だね。恥ずかしいよ。でもね。それだけ、おれは蒼が好きだ」
辛そうな彼を目の前にして、蒼はなす術がない。自分がしでかしたことだ。陽介を慰める役割が自分にはないことを理解していた。
じっとその場に立ち尽くしていると、陽介は「帰る」と言った。
「ごめん。しばらくは会わないよ。こんな状況でまた会ったら。おれは蒼をどうにかしてしまうかもしれない。ごめんね」
「陽介」
「またね。蒼」
「うん……。陽介。またね」
他愛もない挨拶をかわし、蒼と陽介は別れた。関口を選んだ蒼にとったら、過去——いや、陽介との訣別も当然のこと。いつまでも過去を見ていてはいけないのだ。
蒼は振り返ることなく、自転車にまたがると、自宅ではなくバー・ラプソディを目指す。陽介とのことが、自転車のペダルを踏む足に、絡みついているかのようにも感じられたが、今はそんなものにかまけてはいられないのだ。ただ、思うことは一つ。
——関口に会いたい。伝えなくちゃ。おれの本当の気持ち。
それだけだった。
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