第2話 おれにできること


 もやもやと霧がかかっているみたいに、頭がすっきりとしなかった。喘息の状態が悪いわけではない。あの晩。圭一郎のお抱え主治医に見てもらい、その後に父親の診察を受けたので、特に問題はないはずなのだ。


 ——なのに、頭が重いのって、なんでなんだろう……。


 頭の中で考えなくてはいけないことが山積していて、全ての回路がショートしているような状況だ。


 陽介とのこと。

 実家のこと。

 それから関口のこと——。


 ショルティという男が出現し、自分はあっという間に色々なことに巻き込まれたのだが、正直に言って、どうしたらいいのかわからないのだ。 


 ただ関口に対して、なにもできない、もしかしたら自分のせいではないか、という思いがずっと積み重なってきて、身動きが取れないのだ。


 彼と一緒にいても、どう接したらいいのか、わからなくなってしまっている。彼からの告白を受けて、それに対しての回答を示していないということも、その原因の一つでもあるのだ。


「——お」


 ぼんやりとパソコンの画面を眺めていると、突然。耳元で大きく「蒼」と呼ぶ大きな声に驚いた。


「蒼!」


「はい!」


 慌てて視線を上げると、そこには吉田がいた。


「おーい。大丈夫? ほらほら。今日は大ホール掃除、おれたちでしょう? 行くよ」


「は、はい」


 さっさと事務所を出て行く吉田に続いて、慌てて歩き出す。ぼんやりとしている場合ではないのだ。


 ——仕事、しなくちゃ……。


 二人がホワイエを抜けて歩いていくと、二階から星野が顔を出した。


「おー、おー。掃除部隊。頑張れ」


「星野さん。暇なら手伝ってくださいよ」


 吉田は声を上げる。星野はしばし、二人の様子を見下ろしていた。このまま「めんどくせえ」と立ち去るのかと思ったが、彼は珍らしく、緩くカーブを描いている階段を駆け下りてきて、二人に合流した。


「ああ、いいぜ」


「嘘でしょう? やだ。なんか。素直にそう言われると、下心があるみたいで怖い」


「おうおう。吉田くん。先輩に対して失礼だな。本当によお。なあ? 蒼」


 蒼は、ぼんやりと二人の様子を見ていたおかげで、はったとした。


「は、はい」


「なんだよ。ちぇ。お前もしけてんな~。つまんねえの」


 星野にお尻を蹴られて、蒼は「あわわ」と前のめりになった。


「もう。乱暴なんだから」


 吉田は星野を窘めるように見据えて、ステージ袖のロッカーからモップを取り出した。



***


「関口がコンクールにエントリーするんだってね」


 吉田はモップをかけながら、星野に問いかけた。星野は手伝うと言いつつ、すっかり客席に座って、吉田と蒼がステージ上をモップがけしている様子を眺めていた。


 どこに行っても、その話題で持ち切り。関口がコンクールにエントリーするということが、そんなにも話題性がある内容なのだということが、改めて実感された。


「ケルンだろう? なかなか難易度高い、注目度高い新人コンクールに挑戦だもんな。おれも驚いたぜ。なあ? 蒼」


 蒼は「え」と星野を見た。


「そうだった。関口と一緒に住んでいるんだんね。どうして急にこんなことになったの?」


「どうしてって。いろいろあって……」


「この前、蒼が圭一郎先生と一緒に東京に行ったのと関係があるの?」


「えっと……いや。その」


「まあ。しかし。理由はどうあれ、関口にとったら、いい機会になるんじゃねえか。あれは新人登竜門みたいなもんだ。グランプリにでもなったら、一躍、時の人だ」


 ——本当に大丈夫なのかな……。


 昨日の桜のコメントが脳裏をよぎる。しかし、星野は「大丈夫だろう」とあっさりと言った。


「星野さん。いいんですか? そんなあっさりと言っちゃって」


 吉田の意見に蒼も同意した。しかし……。星野は険しい顔をして言葉をきつくした。


「お前らよ。あんまりじゃねえの? なんだよ。なんだよ。関口のことを信じてやんねーのかよ」


「そんなんじゃ」


 ——そんなんじゃ。


 口ごもった吉田と、同じ言葉を心の中で呟く。それと同時に、関口のことを信じてあげられていない自分が恥ずかしいと思った。


「おれはよ。関口には無限大の力が隠れているって思っている。あいつは、やってくると思うぜ。どんなでっかいコンクールだってよ。絶対にグランプリだぜ。そうだろう? 蒼——。なあ、そうじゃねえのかよ」


 嵐の夜に聴いた関口の音。


 ステージの上で輝いて見えた王子様。


 悲壮感漂う、だが自分の殻を打ち破った彼——。


 ショルティという強い光に当てられて、大切なことを忘れていたのだ。


「関口は……」


 陽介とのことを、なんとかしてくれようとしたではないか。人に言うにははばかられるような秘密を持ち出して——。


 ショルティから守ってくれようと、今、こうしてコンクールにエントリーする彼を、——おれが、一番信じてあげていない?


 ——そんなの。おかしいじゃない。おれは……。


 恥ずかしい気持ちでいっぱいになるとともに、いろいろなことが少しずつ明瞭に見えてきた気がした。


「蒼? 大丈夫?」


 ふと隣にいた吉田が心配気に蒼を見ていた。


「え——?」


「ほら。ここ」


 彼は右人差し指で、自分の目を指さした。蒼は、はっとして、慌てて自分の目元を拭う。自分は、いつの間にか涙を流していたみたいだった。後悔ばかりだ。混乱していたとはいえ、無意識に関口を傷つけているのではないか、と思ったら、涙が零れたのか。


「蒼——。お前が一番の理解者になってやれ。あいつはそれを望んでいるんだろう?」


「星野さん……」


 吉田もうんうんと頷いた。


「そうだよ。蒼。大事な人には素直にならなくちゃ」


「吉田には言われなくねーけどな。お前が一番素直じゃねーだろう?」


「う。星野さん。だから自覚して、努力しているんじゃないですか……」


「おうおう。どこが素直なんだか。聞いてみっかよ。あいつに」


「だ、ダメです! そんなこと言っちゃダメです!! つ、つけあがるんですからね。本気で勘弁してくださいよ」


 吉田と星野が言い争っているのを見て、蒼はふと笑みを漏らす。


 ——もやもやとしていたのは、おれの頭の中。関口への思い。持て余しているんだ。だけど……。


「おれは、おれにできることをしなくっちゃ」


 蒼は目元を腕で拭うと、顔を上げた。


 ——いつまでもうじうじしていちゃダメだ。


「掃除、します!」


「お! 気合入ったね~」


「ほれほれ。下っ端は働きなさいよ」


「ちっとも手伝っていないじゃないですか」


 吉田と星野が言い合いになっているのを横目に、蒼はモップがけを始めた。





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