第1話 バー・ラプソディ
ケルン国際ヴァイオリンコンクールとは、歴史の浅いコンクールだ。だが、若手の登竜門として、ぐんぐんと注目度を上げているコンクールであるとも聞いている。ただ、特段興味もなかったおかげで、詳しい内容は理解していなかった。
「で? で? なに。売られた喧嘩は買ってやるってかっこつけちゃって。そのケルンに参戦するんだな?」
ネクタイを緩めて、ウイスキーをあおっていた無精髭の男性は豪快に笑った。
「笑いごとじゃないんですよ。野木さん」
「おうおう。ビビってんのか? お前。ケツの穴小せえな」
「べ、別に。そんなんじゃ、ありませんよ。ま、僕が出ればグランプリは間違いなしですけどね」
眼鏡をずり上げて、関口は言い切る。しかし、すぐにカウンターの中にいた女性に頭を叩かれた。
「桜さん! 暴力反対!」
「このボケ。なにで虚勢を張ってるんだよ。お前の実力じゃ、ケルンなんて無理に決まってるだろ? お前は負け戦に蒼を賭けたのかよ。まったく。なんて男だ。信じられないね」
桜は、この「バー・ラプソディ」の店主。彼女は、タバコの煙をふかしながら、眉間に皺を寄せた。彫の深い、エキゾチックな顔立ちの彼女に睨まれると、さすがの関口も黙り込むしかない。
「桜~。そんなこと言うなよ。男には、負けるとわかっていても、挑まなくちゃいけない戦いがあるんだからよ」
常連客第一号の野木という男は、暇なし店に入り浸っている。ここにきて、彼の姿を見なかった日はないくらいの話だ。
「おれはしがない営業マンさ」と言っていたことがあるが、彼の素性は謎ばかりだ。
「そんなつまらないプライドで賭けられた蒼は堪ったもんじゃないよ。ねえ。蒼」
関口の隣に座っていた蒼は「おれは、別に……」と言った。だがしかし、その表情は不安げだ。東京から帰ってきてから、ずっとこんな調子。なんとかしたいとは思っていても、蒼の心の内はわからない。
関口は歯がゆい想いを抱えていた。
「本当、ごめん。ショルとのことに巻き込んで……」
「ううん。元はと言えば、おれが悪いでしょう。課長に言われたとはいえ。断ることもできたんだ」
この件の話題になると、ともかく押し問答でキリがない。そんな二人の様子に痺れを切らしたのか。桜がすっぱりと言い切った。
「蒼が悪いとは思えないよ。あいつが絡んでいるんだ。そう一筋縄ではいかないだろう?」
「あいつ?」
蒼の問いに、口を閉ざした桜に代わって野木が「関口圭一郎だろう」と言った。
まさしくその通りなのだ。関口の父親である関口圭一郎が、蒼の職場に押しかけ、そして水野谷と取引をして、蒼を東京に連れ出したというのだ。蒼にとったら不可侵なことである。
——今回の件は、僕がスマホを忘れたのが始まりだっていうことはわかるけど。、でも、そもそもは、本当に蒼を連れ出したあいつが悪い!
「だけどね。関口」
桜はじっと関口を見据えた。
「理由はどうあれ、あんたはコンクールにエントリーすると決めたんだ。ショルからの取引なんてことは理由にはならない。それを受けると決めたのは、あんただろう?」
関口は桜の言葉に大きく頷いた。
「そうです。僕はケルン国際ヴァイオリンコンクールに出ると決めたんです。だから蒼は関係ないからね」
「関口……」
蒼は心配そうに視線を寄越した。関口は「大丈夫」と答えた。
「いつかは国際コンクールにもチャレンジしなくてはいけなかったんだ。いい機会だと思う。賭けなんてどうでもいいけど。まー、出るからにはね。ショルになんか負けないよ」
そこで桜のこぶしが飛んでくる。ごつんと鈍い音が店内に響いた。
「痛——っ! 桜さん! 暴力反対!!」
「お前ね。コンクールに本気で入れ込むつもりなら、
桜はタバコを灰皿に押し付ける。
「まずは、パートナーのピアニスト決めて。それから、室内楽だ。経験は?」
「大学時代の授業で」
「はあ? それだけかよ」
「——すみません」
「っていうか。お前、コンクールの概要、調べていないのかよ」
「ええ、まだ——」
三度目。桜のこぶしがゴツンと命中した。
「だから!」
「だからじゃないよ! まったく。明日までに調べておくように!」
桜の言葉を合図に、店の扉が開いた。『バー・ラプソディ』の開店だ。
「お~。兄ちゃんじゃねーかよ。久しぶりだな。今日は一曲弾いてくれるのかよ?」
去年。ここの店でヴァイオリンを弾いていた関口だ。常連客からは歓迎される。
「ああ、こんばんは」
「そうだな。今日からまたここで弾くといい。練習だ」
——とかなんとか言って、店の営業だろう?
関口は大きくため息を吐く。それから蒼を見た。
「いいよ。おれ、大丈夫」
「蒼……。お前、体調悪いんだ。先に帰っていていいよ」
「ううん——。待ってる」
蒼との関係性。関口の気持ちを打ち明けてからというもの、蒼はふさぎ込んでいるようにも見受けられる。
陽介との関係性から、関口の告白。そして、このショルティとの騒ぎだ。
全て自分が関わってのことばかり。とても負担を強いているのではないかと、なんだか心配になった。
「早く弾いてくれよ!」
客からのオファーに、渋々と楽器ケースを開く。それからピアノのところに立って調整を始める。カウンターのところに座る蒼の表情は堅く、なんだかお日様が翳ってしまったようだ。関口は、鬱蒼とした気持ちを持て余しながら、楽器を構えた。
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