第2話 朝の風



「でかした! でかしたぞ! かおり!」


 圭一郎がドアを蹴飛ばして病室に入ると、ベッド上に座っていた「まあまあ」とかおりは笑った。ベッド側に座っていたかおりの母親は呆れた顔をしていたが、そんなものは関係のない話だった。


「赤ん坊は!? どこだ!」


「赤ん坊だなんて、そんな言い方ないわよ。圭ちゃん。男の子よ。ちゃんと名前をつけてあげないと」


 かおりの隣にあるベビーコットの上から、バスタオルでくるまれている我が子を抱き上げて、圭一郎は幸せをかみしめた。


「かおり……っ、こんな嬉しいことはないぞ。なんという至福感だ! なんたることだ! 言葉には言い現わせないくらいの喜びだ。ああ、僕は幸せだ。かおり。こんな幸せを与えてくれて、本当にありがとう。感謝する」


 圭一郎は我が子の頬に唇を寄せた。


「で? 圭ちゃん。名前、どうするの?」


「『ケイ』だ」


「ケイ? 圭ちゃんの字をつけるの?」


「違う。ほたるだ。自ら輝いて欲しい。光を放ち、人々の暗闇を照らしてくれる、そんな人間になって欲しい」


「まあ、いいわね! 蛍ね」


 かおりのところに蛍を差し出した圭一郎。二人は蛍を見つめてから、視線を合わせた。


「僕たちの子だ」


「そうよ。私たちの大切な宝物よ」


「命をかけよう。僕はこの子に。この命をかける。絶対に幸せにしてみせる」


「まあ、頼もしい。私もですよ。圭ちゃん。私もこの子のために、頑張ります」


「ああ。かおり。僕たちは幸せだな」


「ええ」


 関口家の前途は揚々だ。あの日あの時。生まれて初めての幸福感に包まれていたのだ。


 そう。これは夢。過去の夢を見ていたのだ。昨日は遅かったせいかうたた寝をしてしまったらしい。


 常日頃、睡眠時間などあってないものだが、やはり自宅という場所は、気持ちを緩めるのだろう。


 大好きなモンテヴェルディのマドリガーレ集が耳をくすぐる。ゆったりとしたソファから躰を起こすと、最愛の妻であるかおりが顔を出した。


 彼女はふんわりと緩いカールがかかった栗色の髪色を揺らし、優しい笑みを見せる。白いブラウスに、藤色のスカート。真っ白なフリルのついたエプロンをつけている彼女は、まるで舞台で演技をしている女優のような優雅さだった。


「まあ、呆れた。朝寝ですか」


「かおり。夢を見た」


「なんのです?」


 彼女の問いに、圭一郎は「ふふ」と笑った。


「蛍が生まれた日の夢だ」


「あの時は、本当に嬉しかったですね。もちろん、音々おとねが生まれた時も嬉しかったけれども」


「やっぱり初めての子は、格別だな。僕は蛍を幸せにしてやりたくてやってきたんだ。だけど、それは蛍にとったら、全て裏目に出ているんだろうな。嫌な父親だろう? きっと」


 かおりは、側のソファに腰を下ろすと「そうね」と明るい声で言った。


「確かに、嫌なお父さんですよ。だって、蛍の大事な蒼ちゃんをショルの接待役にするだなんて。私だって怒っているんですよ。なにも息子の大事な人をあてがうことないじゃないですか。もう!」


「いや。ショルはね。きっと蛍を高みに連れてく起爆剤になるんじゃないかって思ったんだよ。ピンと来たんだ。僕の勘はほぼ100%当たるからね」


「いつも行き当たりばったりで生きているものね」


「それは褒め言葉だ!」


 圭一郎の言葉に、かおりは吹き出した。


「もう。本当に。でも、そこが圭ちゃんのいいところでしょう? いつかわかってくれますよ。蛍もお馬鹿さんじゃないですからね」


「そうだといいのだが……」


「私もあなたも、音楽家の中で生まれ育ったんですもの。普通のお宅みたいな子育てが、できるはずないじゃないですか」


「確かにな」


 圭一郎は口元を緩める。


「私たちは、だから音楽をするんでしょう? 圭ちゃん」


 ——そうだ。僕たちのコミュニケーションは……。


「僕たちのコミュニケーションは言語ではない。——音楽だ」


 圭一郎の言葉に、かおりは満足そうに頷いた。彼女の笑みは、圭一郎を癒してくれる。彼にとって、家族とはとても大事な宝物なのだ。 


「そろそろ蒼ちゃんの様子を見てきましょうか。点滴も外れて寝ていました」


「そうか」


「蒼ちゃんに謝らないといけませんからね」


 ぴしゃりと言われて、圭一郎は頭をかいた。


 彼女が出て行った部屋は静かで。明るいマドリガーレが充満した。きらきらと輝く光のようなソプラノの旋律。さわやかで、希望に満ちた朝を表現している色彩豊かな曲だ。


 ——l'aura è tua messagiera,e tu de l'aura.朝焼けはあなたの使いだ あなたは私の朝の風だ……。僕にはかけがえのないものなんだ。蛍にも輝かしい未来を与えてやりたい。


 圭一郎は窓の外に視線を移し、束の間の我が家を満喫していた。




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