第1話 素晴らしき一日
どうやら夢を見ているようだった。ふわふわとしていて、視界の映像はまるで、一昔前の映画のようにノイズがかっている。
関口圭一郎は、落ち着かなかった。いや、落ち着かないということは日常茶飯事で、然程、特別な感覚ではないのだが。その日のそれは、いつもとは違った意味でのものだったのだ。
「鈴木クン!」
圭一郎の声に気がつかないのか。まるまるとした若い女性は、ボールペンでノートに、なにやら熱心に文字を書きこんでいた。
「鈴木クン!」
もう一度呼びかけると、彼女は、はったとして顔を上げた。
「マエストロ。すみません。なにか?」
「いや。別に用はないんだが。もう今日は帰ってもらってもいいのだよ」
「え? でもまだ仕事があります。それに午後の打ち合わせも」
「いや。僕一人でも大丈夫だ」
「そんなわけに参りませんよ。それに、今日は特別な日ではないですか。私だって、嬉しいんですよ。マエストロ。だって、今日は——」
彼女はさも自分のことのように、嬉しそうに話す。圭一郎はため息を吐いて首を横に振った。
「すまないね。鈴木クン。だが、今日はとってもそんな気持ちになれなくてだな——」
音楽以外のことは、からきしダメな質。こうして秘書の役割をしてくれる人材を置いておかないと、スケジュール管理すらままならない男だ。
だがしかし。秘書には恵まれなかった。これまで、何人もの人間を雇っては解雇してきたが、自分の思うように動いてくれる人間はいない。
鈴木は比較的、マシな方だった。今までに解雇した秘書の数は両手では収まらない。
鈴木という女性は、短大を卒業したばかりだと聞いている。ふくよかで肉まんみたいな女の子だ。彼女を見ていると、肉まんが食べたくなる。
こんなへんてこな男の秘書なんかやっていないで、いい男性でも見つけて結婚したらいいのに。きっといいお嫁さんになるだろう。朗らかで、小さいことは気にしない。仕事で疲れて帰宅したところに彼女がいたら。きっと救われる男子がいるものだ。「自分は御免だがな」と圭一郎はそう思っていた。
「あらあら。そんなこんなしている間に、打ち合わせのお時間みたいですね。さあ、参りましょうか。マエストロ」
鈴木は、圭一郎の二倍はあるかという厚みのお腹を揺らして席を立った。軋んだ椅子を眺めて不憫に思う。
——いつまでもつだろうか。壊れてからでは彼女が傷つくかも知れない。早々に買い替えを検討しよう。
圭一郎はそんなことを思いながら、鈴木に続いて廊下に出た。
そしてすぐに次の場面に切り替わった。鈴木とやってきたのは、都内にある出版会社のビルの一室だった。よく見知った部屋だ。それもそのはずだ。圭一郎は、過去を辿っているのだ。夢の中で、あの日。あの特別な日を辿っているのだから。
圭一郎が足を踏み入れると、すでにメンバーはそろっていた。その日の打ち合わせは、とある音楽ホールのこけら落とし公演の打ち合わせだった。
集められたのは、オーボエ奏者の
チェロ奏者の
ヴァイオリン奏者の
ピアノ奏者の
そして、指揮者である関口圭一郎だ。
「先生。お忙しいところ申し訳ありませんでした」
最初に近づいてきたのは、今回の主役である音楽ホールの責任者である女性。
「いや。今日はその」
「忙しいわよ。とってもね~」
真っ白なシャツにジーンズ姿のラフな格好の桜はにやにやと圭一郎を見た。その意味ありげな言葉に反応したのは奥寺。
「なになに? どういうこと?」
「だって、奥様がご入院されているんだから。それはそれは気が気じゃないでしょう? ねえ。すみれちゃん」
宮内すみれは苦笑した。
「私も叔母さんになるんですよ。嫌になっちゃうな~」
「叔母さんって。かおりちゃん、おめでたなの?」
「そうなんだ。かおりは出産を控えていてね。昨日の夜から陣痛が来ていて——。いつ生まれるのかと思うと気が気じゃないのだ」
圭一郎は、病院に詰めている義母からの電話を思い出し、わくわくを隠し切れずに、声を弾ませた。
「かおりは初めての出産で、かなり緊張しているみたいだったしね。圭一郎さんもついていてあげればいいのに」
すみれの言葉に桜は笑う。
「ダメよ。ダメ。この人。こう見えて臆病だから。出産になんて立ち会ったら卒倒しちゃうんじゃない?」
「桜。ひどいね。僕だって、数々の修羅場を潜り抜けてきたんだけど?」
「修羅場って、お前が言うと、軽く聞こえるな」
川越もからかうように笑った。圭一郎は面白くない。
ここにいるメンバーは音大時代からのつながりがあるメンバーだ。出身大学こそ違えど、同年代で気が合う。
ここに妻である宮内かおりが入って、一通りの仲良しグループが揃うのだ。
宮内すみれと宮内かおりは姉妹だった。すみれが姉で、かおりが妹。妹の出産について、彼女も少し落ち着きがないのは致し方ないことだろう。宮内家、関口家にとって、待望の初孫。これは由々しき事態なのであった。
「圭ちゃんは、どっちが欲しいの?」
「どっちって」
「男の子? 女の子?」
すみれの問いに、圭一郎はなんだかくすぐったい気持ちになった。
「僕はどちらでも! 無事生まれてきてくれるなら、どちらでもいいんだ」
打ち合わせの場の空気はとっても和やかだ。みなが、圭一郎の子どもの誕生を祝福していた。
「まあ、そんなおめでたい日に打ち合わせだなんて。申し訳ありませんね」
共催であり、企画運営の中心となっている音楽雑誌出版会社、音楽の時間社の女性は朗かに笑った。
「ということで、途中で抜けることもあります。すみません」
「その時はどうぞ遠慮なく抜けてください」
そんな話をしている最中なのに、廊下から男性が駆けてきた。
「マエストロ! 病院からお電話です——」
圭一郎は彼の言葉が終わらない内に、打ち合わせ室を飛び出し、廊下に駆けだした。
そして場面は一気に病室へと転換した。
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