第2話 おやじたちに乾杯
「市役所にはいくつかの派閥があるんですよ」
水野谷は、説明を始めた。
「現副市長の澤井さんを頭とする澤井派。それから、僕が懇意にしている財務部長の吉岡さんが頭の保住派——」
「ちょ、ちょっと待って。保住派ってなんで? 頭が吉岡部長だもの。吉岡派じゃないの?」
「ええ。保住って言うのは、僕らの先輩——澤井副市長の同期だった人物なんです」
「だった?」
「——亡くなったんですよ」
「あ、」
表情を曇らせた水野谷を見て、氏家は聞いてはいけないことだったのではないかと、視線を伏せた。しかし彼は、にこっと笑みを見せる。
「無茶ばっかりの先輩でした。僕は吉岡さんと、保住さんに育てられました。どちらも尊敬すべき先輩だ。保住さんは仕事に熱心で融通が利かない人でしたが、そんな熱にほだされて、たくさんの若者が彼に心酔していたんです。ほら、昔ってそういうのあったじゃないですか」
「確かにね~。おれが子供の頃は、学生運動とかも盛んだった。若者っていうのは、なんにでも一生懸命の時代だったよな。人に酔いしれて、全てを任せてしまう。夢中になったものだね。それに引き換え、今時の若者はドライで、人との付き合いを嫌うのは、どういうことなんだろうな?」
氏家は自分の若かりし頃を思い出し、なんだか胸熱くなるのを自覚した。
自分だってそうだった。
昔から、こんな窓際族だったわけではないのだ。市役所に入りたての頃は、胸に熱いものを抱えて、そして脇目もふらずに仕事をしてきたのだった。
市役所内でも、横のつながりを作る動きが盛んに行われている時期だった。組合に参加し、そこで知り合った妻と結婚した。
——あの頃は可愛かったんだ。あいつだって。初々しい乙女みたいな。それがどうだ……。
今では妻のほうが給料も高ければ、立場も強い。氏家の妻は、彼と同じ市役所職員だが、保健技師という専門職だ。
氏家は、流刑地と呼ばれる
しかし妻は健康福祉部の保健技師たちを束ねる係長。氏家が自宅にいても、お荷物みたいに感じられるのはそのせいだ。
そんな自分の身の上に想いを馳せている間も、水野谷の説明は続く。
「保住さんは、こころざし
「その澤井派、そして保住派が二大派閥って感じですか?」
高田の問いに水野谷が頷いた。
「きっちり二つに分かれているというわけではありませんが、そういうことですよね。しかし、若い世代も育ってきている。他にもいろいろな職員同士の集まりがあるものです」
「本庁って、なんだか政治の世界っぽいですね。駆け引きがありそうだ」
「まあ、組織とはそういうものでしょう? 利害関係が一致すれば、手を結ぶのは他愛もない。だけど、みんなでどうこうしようという気持ちがない者だって大勢います。極端に言えば自分さえよければっていう人たちもね。僕は正直、どうでもいいんですよ。僕の大好きな部下たちや、先輩たち。そういう人たちが、少しでもいい気持ちでいられるなら。それでいいんだ」
——だから、みんな、課長が好きなんですよ。
氏家は心の中でそう呟いてから笑った。
「副市長ポスト争いに加わる気はないんですか。課長なら余裕だと思いますけど」
「そんなものになんの価値も見出せません。僕は僕の好きなことが出来る場所にいたいんです。それは、ここでしょう?」
高田は目元を押さえる。
「ほ、本当に、もう——課長って。人を泣かせるの得意なんだから……」
「本当だ。おれはねえ。課長。あなたのところで退職できることを誇りに思っているんですよ。いつも本当に……ありが
「ちょ、や、やめて。本当に。氏家さん。せっかくいいところなんだから。なんだか親父ギャグ言わないと思ったら、こんな時に……もう、本当。やめて……」
高田はクツクツと笑った。それにつられたように水野谷も笑った。
「本当にね。氏家さんには救われます! 氏家さんがいてくれるから、うちの部署もこうやっていられるんだと思うんですよね」
「課長」
「氏家さん、『ありがとう』とアリが問う!」
「課長~。そんなバナナ」
「稲はいーねー」
二人のダジャレに高田も混ざった。
「なんか妖怪」
「布団がふっとんだ」
「残暑が厳しいザンショ」
三人は顔を見合わせて「ぷ」と吹き出した。
「関口が海外のコンテストに出るって、狐のテストでコンテスト!」
「それムリがあるでしょう?」
氏家の言葉に水野谷は愉快そうに笑う。
「とうとう、あいつも世界に羽ばたく時が来たのかねえ」
「応援してあげなくっちゃですね」
「そうそう。もう我々は、若い者たちを支えてあげることくらいしかできないものですからね」
水野谷はグラスを持ち上げた。それに続いて高田と氏家もグラスを傾ける。
「若者たちの未来に——」
「乾杯」
「そして我々のギャグに」
カチンと鳴ったグラスの音に、三人は満足げに笑みを見せてから、一気に紹興酒をあおった。
— 第五曲 了 —
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