第1話 恋する小石



 氏家は荷物を抱えて、狭い階段を昇って行った。すっかり通い慣れた店であるため、そう難儀することはない。


 漆黒の塗料で塗られている壁を伝わって、二階に上がると、ガラス張りの自動ドアのところに、朱色のペイントで『中華料理店 ドラゴン・ファイヤー』と書かれていた。


 中に入ると、相変わらず客が少ない。中国を思わせる装飾に囲まれた店内は、そう広くはない。


 氏家はきょろきょろと視線を巡らせてから、目的のテーブルに腰を下ろす。先に座っていた水野谷と高田は、手を上げて氏家を迎い入れた。


「おつかレモン」


「どうしたんですか? 氏家さん。遅刻なんて珍しいじゃないですか」


 紹興酒しょうこうしゅを飲んでいた水野谷は、軽く目元を赤くしている。すっかり出来上がっている様子だった。


「孫がね。熱出しちゃって」


「それはいけませんね。いいんですか? ここに来ていて」


「まあ、爺ちゃんは傍にいても、なにもしてあげられませんからね。むしろ、いると邪魔者扱いです。いいんじゃないでしょうか」


 氏家はそう言いながら、定位置である高田の隣に腰を下ろす。すると、すぐにドラゴン・ファイヤーの女将が寄って来る。


 彼女は美しいと氏家は思っていた。片言の日本語からすると、日本人ではないことがわかる。だが、アジアンビューティーとでもいうのだろうか。切れ長の瞳がキラキラと輝き、艶やかな口元は、男の本能をくすぐってくる魅力がある。


 いつも違った色のチャイナドレスを纏っている彼女の、そのボディラインは、きゅっと引き締まっていて、おじさん世代にはたまらないものがある。


「おかみさん。いつもので」


「はい。それよりも、ウジイエさん。ダイジョウブ? なんだか疲れているみたいネ」


「わかる? ああ。嬉しいね。そんなこと言ってくれる人、あんまりいないな~」


「そう? 私、ウジイエさんのこと、好きヨ」


 氏家は顔を熱くして「ありがトン」と言った。他のテーブルから呼ばれて立ち去った女将の後ろ姿を見て、氏家はため息を吐く。


「氏家さん。なんです~。なんか恋しちゃっているみたいな顔していますけど?」


 高田は氏家の脇腹を肘で突いた。


「よせよ。そんな年じゃないって。もう来年は退職だし」


「そんなこと言って。恋する男は何歳になっても現役ですよ!」


 高田の言葉に、水野谷も「そうです、そうです」と深く頷いた。


「課長は奥さんとうまくいっているんだ。恋なんて無縁ですかね」


「いえいえ。僕は四六時中、妻に恋をしていますからね」


 氏家は、高田と顔を見合わせてから、頬を熱くした。


「おやおや。なんです? 僕、変なこと言いましたか?」


「うぶぶ……いや。いや。課長って、たまに歯に衣を着せぬ言い方しますよね~」


「こっちが恥ずかしくなっちゃいますよ」


「そうでしょうか?」


 水野谷は真面目な顔で首を傾げる。

 彼の世間とのズレは時々、是正できないレベルに陥ることがある。元々、育ちのいいお坊ちゃまだと聞いている。田舎では珍しい学習院の出だというし、凡人とは違っていても致し方ないのかも知れない。


「恋する小石こいし、なんちゃって」


「もー。氏家さーん」


 氏家の目の前に水割りを置いてくれた女将へ笑みを返し、それを口に含んだ。


「最近、若手もいい感じで緩んでいるんじゃないですかね」


 高田はだらしなく仕事をしているようで、職員の様子をよく観察している。


「そうか?」


「そうですよ。吉田は恋人いるでしょう? あれ」


「え! だって彼女の話、しないじゃない」


 氏家の言葉に返したのは、水野谷だ。


「吉田はねえ。恋する乙女みたいなもんでしょう? いつも目がキラキラと輝いていますよね。あれは乙女ですね」


「課長まで……知らないのはおれだけなんて、だ!」


 氏家はヤギの真似をした。それを見て、二人はくつくつと笑う。


「そう言えばねえ。関口が国際コンクールにチャレンジするって、星野が言っていましたねえ」


「あれはですね。蒼のおかげですよ。蒼の」


「高田さん。それ、たし


 今度は、氏家はチョキチョキと両手をピースにして見せた。


「あいつ、目つき変わったもんな。蒼と同棲しているって言ったっけ? よかったじゃんー。ぼっちだったもんね。友達もいないし。恋人なんて、いた試しないだろー?」


 高田の言葉に、水野谷は紹興酒をあおってから、笑みを見せた。


「いい傾向です。いい傾向です」


「しかしよー。関口と蒼がくっつくだなんて。予想外! 想定外!」


「氏家さん。そう言わないで。男と女だってなにがあるかわからないんだよ? 男と男だってわからんものだ」


「そうです。そうです」


「くうう。若者の成長を見守っていたいのによお。土管がドッカーン! 来年は定年だぜ」


「なんだか迫ってきちゃいましたね~」


 しんみりとした声色の高田に、氏家も表情を翳らせた。男にとって、現職を退くということは、人生の大きな分岐点にもあたる。


 二十代からずっと休むことなく務めてきた市役所の職員という身分が外れてしまうのだ。その後の人生がどうなっていくのか。想像もつかないことであろう。


 水野谷は「順番なんですけどね」と言った。


「そうだよなあ。おれが世話になった先輩たちだって、滞りなく退職して、市役所から去って行った。職場では、あんなに顔を合わせていたのに。今となっちゃ、どこでなにをしているんだか。『死んだ』って風の便りで聞いて、『ああ、そうだったんだな』ってくらいだしな。男って、何なんだろうな~って、つくづく思うんですよね」


 氏家は、水割りの水面に浮かぶ自分の顔を見つめて言葉を続けた。


「家庭にいると邪魔者扱い。会社だって、窓際族みたいなもんだしね。おれなんか消えちゃったって、誰も気が付かないんじゃないかって、時々思うわけですよ」


「氏家さん……」


 高田はじっと押し黙って氏家の横顔を見つめていた。


「同期なんて、部長クラスだ。華々しく退職するんだろうよ。みんな」


「でも、部長クラスまで持ち上がれない人だって大勢いるもんですよ」


「水野谷課長は、大丈夫です。あなたは出世コースだ」


「出世コースで星音堂せいおんどうになんかいませんよ」


 氏家は首を横に振った。


「いいや。なんらかの意図があるんでしょう? 知っています。水野谷課長は吉岡派の中心メンバーだ。財務部長の吉岡さんが、課長可愛さに、本庁から引き離しているだけだ」


「え、そうなの?」


 氏家の説明に高田は目を丸くした。




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