第5話 父さん


 関口はまっすぐに父親を見据えた。「うるさい」といつも彼からも逃げてきた。こうして真面目に彼と対峙するのは、いつ振りだろう? いや。もしかしたら、初めてかも知れないと思った。


。僕は、『出ない』だなんて一言も言っていないけど?」


 圭一郎はじっと黙ってそこにいる。


「僕がケルンに出るのは、自分自身のためだ。ショルティとの約束なんかどうだっていいんだから。悪いけど、こんなくだらないことに蒼を賭けるなんて、蒼に失礼だと思わないの? ショルは、人の気持ちもわからない——不躾で、とっても無作法極まりない男だ。確かにいい音楽を作るのかも知れない。だけど、僕はあんな奴を認めることは、できない」


 関口は蒼の腰に腕を回してから引き寄せる。


「父さんに言われなくったって、コンクールにチャレンジするってことは、僕自身の問題だってこと、ちゃんと自覚しているんだ。ねえ、僕のこと、信じられないの?」


 関口の言葉は、圭一郎にどう伝わったのだろうか。

 

 彼は目を見開いてから、すとんと腰を下ろした。彼の胸の内は、関口には理解できない。だが、少なくとも、自分の言葉を受け止めてくれたのではないかと思った。


「ずっと感じていたんだよ。父さんが、母さんが、僕のことを心配しているってこと。なにかを成そうとすると、どこかで、必ずと言っていいほど、あなたたちの影がちらついていた」


 ——どこで演奏をしたって、学校で勉強をしていたって、この人たちの息子っていう前振りがずっとついて回っていたのだから。


「そんなことばっかり考えてしまうと、物事を素直に受け止められなくなるんだよ。ずっと成功者としてやってきた二人にはわからないことだと思うけど」


 ——そうだ。今までの自分の人生は、全てこの人たちの影響が色濃く見えていた。


「今回はね。一人で勝負するから。親だって言い張るんだったら、悪いけど。黙って見ていてくれないかな」


「もちろんよ。もちろん。けい。あの、私たちは——」


 かおりは泣きそうな瞳で関口を見ていたが、「かおり」と圭一郎がそれを止めた。


「蛍。僕は謝らなくてはいけないみたいだ。いつまでも、いつまでも、お前を庇護しなければならないと思い込んでいたようだ」


 ——まだ半人前だけどな。


 内心、自嘲気味に呟きながら、関口は蒼を見下ろした。彼は心配気な濡れ羽色の瞳を関口に向けていた。


「大丈夫。蒼がどうこうなったりしない。蒼はものじゃないんだから。僕は蒼を賭けた勝負なんて受けないから、安心して」


「関口」


「ほら、帰ろう。ねえ。僕たちの家に帰ろう」


 ——そうだ。ここは僕の家ではない。


「蛍。でも、蒼ちゃんはまだ調子が悪そうよ」


 関口は首を横に振る。


「ゆっくり帰るから大丈夫だよ。母さん。それから。父さん——」


「なんだ」


「今回は色々と言いたいことも山ほどあるけど。蒼のことを助けてくれてありがとう。じゃあ」


 関口はそう言い残すと、蒼の手を引いて実家を後にした。



***



「あ~あ。言われちゃったわねえ。圭ちゃん」


 取り残された圭一郎に、かおりは「ふふ」と柔らかい声色で言った。圭一郎も苦笑いだ。


「あんなに可愛らしい赤ん坊だったのになあ。今では一人前の男って顔しているじゃないか」


「蛍のことにいろいろ手を出していたんじゃないでしょうね?」


「そ、それは。だって。気になるだろう? 別に大々的に『僕の息子だから、優遇してよ』なんて、そんなことは言わないよ?」


「言っている顔しているわよ」


「あ、有田がね」


「有田くんのせいにはしないんですよ」


「……はい」


 かおりは大きくため息を吐いた。


「とは言っても。今まで、あの子自体がくすぶっていたんですもの。圭ちゃんが、水面下で色々な動きをしたところで、大した役に立たなかったでしょうけどね。——いいですか? 今回ばかりは、手を出しちゃダメですからね」


「手を出したくとも、出せないだろう? ケルン国際ヴァイオリンコンクールは、新人の登竜門として、歴史が浅いなりに、有名なコンクールになっているものだ。その理由は、平等性の重視だからだ。コンクールなど、パフォーマンスに成り下がっているこのご時世。審査員の弟子は参加不可。一次審査では、演奏順は非公開で、しかも審査員は、奏者が誰だかわからない状態での審査になるのだ。しかも、聴衆審査もかなりの影響力があると聞いている。僕が入る隙なんて、一つもないよ」


「いい趣向じゃないの」


「だから、人気が高いのだ。毎年、無名のヴァイオリニストがグランプリを獲っているいるものいいものだ。ショルの奴。いいものに蛍を引っ張り出してくれた」


「圭ちゃんの勘は当たったけど。言われ放題じゃない」


「いいではないか。蛍が、あんなに僕たちと向き合って、きちんと話をしたのは何年振りだ? 初めてかも知れないぞ。ああ、こんな幸せな朝はない。僕は今回、日本に戻ってきて本当によかった。かおり。僕は嬉しいのだ」


「もう、圭ちゃんったら」


「それに! 聞いたか? かおり。僕のことを『父さん』って言わなかった? ねえ。言ったよね? ああ、なんてことだ。嬉しい、嬉しいぞ……」


 圭一郎は、喜びを噛みしめるように、両手を握りしめると、ガッツポーズをした。それから、時計に視線をやる。有田との約束の時間だ——。そう思った瞬間。来客を告げるチャイムが鳴った。


「まったく。時計でも飲み込んでいるのかと思うくらい、時間に正確で嫌になるね」


「でも、有田くんがいないと、圭ちゃんは生きていけませんよ」


「だな」


 圭一郎は腰を上げる。


「今日はドイツに戻る」


「私は、明日からアメリカに行きます」


「そうか。次はいつ会えるのか」


「それまで、無理しないようにね。圭ちゃん」


「かおりもな」


 圭一郎はかおりを引き寄せて抱きしめると、それから部屋を出た。



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