第4話 逃げてきたツケ



「かおり。少しは自重しないと。蒼がびっくりしちゃうだろう?」


 ソファにゆったりと座り、新聞を広げている圭一郎を見ていると、イライラとした。


 ——一体、誰のせいでこうなったと思っているんだ……。


 圭一郎は優雅に朝のひと時を寛いでいる。壁面に設置されている大掛かりなオーディオ機器からは、モンテヴェルディのマドリガーレが流れている。彼は指揮者としてオーケストラや室内楽を振ることがもっぱらだが、声楽曲を聴くのがとかく好きだ。暇さえあれば、バロック時代の曲を中心にこうして声楽曲を聴いている。


 ——なにが「波はささやき」だ。僕の心は暴風雨なんですけど!


 苛立つ気持ちを隠す気にもなれない。


「まあ! 圭ちゃんに言われたくはないわ。どうせ、蒼ちゃんのことぎゅっとしたり、べたべた触ったりしたんでしょう?」


 息子の気持ちを代弁してくれるのだろうか。かおりは、大きなフリルのついた真っ白なエプロンをして、長椅子に腰を下ろし、圭一郎にお小言を並べていた。


 ——ここにいると息が詰まりそうだ。


 滅多に集まらない関口家である。こうしてたまに勢ぞろいすると、煩わしくてかなわないのだ。もともと、別行動をするのが、家族の形態を維持するのにちょうどいいのだろうと思った。


「触ってなどいないぞ。梅沢から連れてきただけじゃないか」


「ショルの接待役としてね」


 関口のコメントに、かおりは「それよ!」と大声を出した。その声はさすが、人気絶頂のソプラノ歌手。外にまで響きそうなほど豊な声量。体調の思わしくない蒼が顔をしかめるのがわかる。寝不足である関口も、到底、耐えられないものだ。


「さっきもその話で圭ちゃんを怒っていたのよ。他所の子のことなんて、どうだっていいんですからね」


「そうもいかないだろう? ガブリエルの頼みだし」


 二人が言い争いになりそうな雰囲気に、関口は声を上げた。


「どっちもどっちだ。悪いけど、付き合いきれないよ。蒼が良くなったから、僕たちは帰るから」


 関口は起きてきたばかりで、顔色の悪い蒼を見る。こんな調子で、梅沢まで連れ帰るのは、彼には負担であると理解しているが、ここにいるだけで、自分まで具合が悪くなる。新幹線に飛び乗ってしまえば、後は乗っているだけだ。そう思ったのだ。しかし、そんな関口の言葉に動じるような両親ではない。かおりは「まあ!」と声を上げてから、今度は関口に視線を向けた。


「蒼ちゃんは病み上がりなんですよ。そんなに急かしたら可哀そうじゃありませんか。蛍、蒼ちゃんに配慮が足りませんよ。あなた。それでも男の子ですか」


「そうそう。蒼はやっと元気になったんだから……」


 圭一郎も便乗して口を挟むが、かおりは、今度は「まあ! まあ!」と圭一郎を見る。


「ですからね。圭ちゃんが言う事ではないんですからね」


 かおりに怒られて、圭一郎は首を引っ込めた。


 もごもごと歯切れが悪く口ごもっている圭一郎はなんとも情けない。だが同情をするつもりもないのだ。


 今回は、比較的まともな受け止め方をしてくれているかおりは、関口の味方になっている構図だが、普段はその逆だ。かおりも音楽家ばかりの家庭に育っているおかげで、ともかく世間からはズレていることが多いのだ。圭一郎とかおりがタッグを組むと、この世界の誰にも負けない最強のペアが誕生するのだ。関口や、妹の音々おとねは、そういう両親たちに振り回されて、今ここにある。素直に育つはずがないじゃないか、と関口は思っていた。


「あんたたちには付き合いきれないんだ。蒼、帰るよ」


「でも……」


 間に挟まれて狼狽えている蒼の腕を掴んで、歩き出そうとすると、ふと圭一郎が声色を変えた。


けい! 昨日のショルとの約束。忘れることのないよう」


 不敵に笑みを浮かべている父親が憎たらしい。


「お前はあの時、迷わずにショルの宣戦布告に受けて立ったのだからな」


「まあ、なんの話なんですか?」


 かおりは圭一郎と関口を交互に見つめた。


「ショルとね、蛍は賭けをしたんだ。ケルン国際ヴァイオリンコンクールに出場し、ファイナルまで勝ち残るという。蒼を賭けてね」


 彼は読んでいた新聞をたたむと、そばのテーブルに叩きつけてた。隣にいた蒼がびっくりする様子がわかる。


「——でも、そんなものは、どうでもいい話じゃない」


「どうでもよくはない!」


 圭一郎は再び、テーブルを叩くと、すっくと立ちあがって、仁王立ちになった。


「これは大事な話だぞ? お前の将来がかかっている。——蛍。出るのだろう? まさか、出ないなんてこと——」


「あんたに指図なんてされたくない」


「では蒼をショルにくれてやるということだな?」


 思わず蒼を見る。彼はさっきから一言も発していない。しかし顔色が悪く不安そうに関口の視線を見つめ返してきた。


「そんなことはさせない——」


「お前はお前が許せないはずだ。違うか? こんな半人前で、蒼の隣にいる資格はないと、お前自身が思っているのではないか?」


 ——そんなことは知っている!


「それとも自信がないか? ファイナルまで勝ち残る自信がないのではないか」


「圭ちゃん!」


 かおりはさすがに仲裁に入ろうとするのだが、そんなことは関係がない。関口は、自分の父親を見返した。


「自信がないだって?」


「そうだ。ファイナルまで勝ち残る自信がないのだろう? 戦う前からしっぽを巻いて逃げ出すのか? 蛍」


「……っ、そんなこと。僕がするわけないでしょう?」


 圭一郎の挑発に乗っているのは重々承知だ。だが限界なのだ。自分が自分を許せない。蒼という人間と出会ってから、余計にその思いは強くなった。


「関口。おれはいいんだよ。おれは……」


 関口の腕を蒼が掴んだ。はったとして見下ろすと、彼は首を横に振っている。


「おれが悪いんだ。こんなことになっちゃって。関口がショルの挑発に乗る必要なんてないんだから」


「蒼。——ごめん。わかっている。それに違うんだ。違う」


「なにが違うの?」


「だから。これはおれの問題なんだ」


「そうだ! 蛍。これはお前の問題だ。お前自身の問題なんだ!」


 圭一郎が大きな声を出す度に、蒼の関口を握る手の力が強くなる。これ以上、蒼に辛い思いをさせたくないと思った。関口は蒼の腕を握り返してから、圭一郎を見据える。


 ——いつも逃げているから、こういうツケが回って来るんだ。


「父さん」


 低い声色に、いつもとは違った雰囲気を感じ取ったのか。圭一郎は口を閉ざした。



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