第11話 月夜の嫉妬
どうして、こんなことになったのだろうか?
薄暗い部屋で、視界に映る点滴のボトルを眺めていると、人の気配がした。
「起きた?」
声の主を確認しようと視線を巡らせると、そこには優しいまなざしが見えた。彼の顔は月明かりで青白く見えた。
「関口……」
自分では彼の名を呼んだつもりだが、思ったよりもそれはかすれていて、声になっていなかった。関口に手を伸ばそうとして、腕の痛みにはったとした。点滴は自分の腕に繋がっているのだと認識したのだ。蒼は、動くことを諦めて、ただ視線を関口に向けたまま黙り込んだ。そして、「ごめん」と呟いた。
関口の父親からの依頼とは言え、彼にはなに一つ話をすることなく、ショルティのデビューコンサートに付き合う羽目になった。終いには、喘息の発作まで起こして、迷惑ばかりをかけたことについて、反省の念しか思い浮かばなかったのだった。
——きっと怒られる……。
関口の大きな声を想像して、ぎゅっと目を瞑る。しかし——。想像とは違った暖かい感触にはったとして目を開けると、関口の顔がずっとずっと近くにあった。
蒼はそこで初めて、自分が関口に抱きしめられているということに気がついたのだった。
「関口——」
「心配かけないで。本当に。もう——。今回ばかりは、心臓が止まりそうだった」
「……ごめん、なさい……」
関口の返答はないが、その代わりに、蒼を抱く腕の力が強くなった。
これなら、怒られたほうがマシだと思った。
しばらくの間、そうしていただろうか。蒼にはその時間がどれくらいか、理解できるほど、思考が回ってはいなかった。点滴で発作を抑えてもらっているとはいえ、躰は疲弊していた。
「ショルに変なこと、されなかった?」
「変なこと……?」
「そうだよ。あいつ。手が早いので有名なんだから。蒼はお酒弱すぎでしょ? なんで知らない人の前で飲むのかな〜」
「だって。お祝いだって言われて……」
「蒼があいつのデビューを祝う必要はないじゃない。まったく。どんだけお人好しなの?」
「お人好しって。もとはと言えば関口が悪いんでしょう? おれの写真待ち受けにしていたって……」
蒼の言葉に、関口は目元を赤くした。
「べ、別に。いいじゃん……」
言い訳のしようもないのだろうか。いつもだったら、なにかと言い返してくる関口が、今日は珍しく口ごもって黙り込んだ。そのしぐさは、少し幼くて、なんだか微笑ましく思った。
関口の頬をそっと指で触れてみる。妙に火照ったように熱くて、心配になった。
「演奏会だったんでしょう? 大丈夫なの?」
「別に。終わらせたから平気。今日は休みだし」
「今日は?」
「そうだよ。もう今日だ。今は夜中の二時だ」
「いやだね。おれ。そんなに寝ていたの。っていうか。関口。ずっとついていてくれたの?」
「別に。心配しているわけじゃないし。ここは僕の部屋なんだもの。蒼がベッドを占領しているんだから、仕方がないじゃない」
「ご、ごめん」
——そうか。おれ。関口の実家に連れてきてもらったんだ。
「昔から懇意にしている医者がいてね。往診してくれたんだ。よかった。すぐ来てもらったから」
関口はそう言うと、すっかり黙り込んだ。消灯されている部屋は暗い。だがしかし、今日は満月のようだ。開け放たれた窓からは、大きな月が顔をのぞかせていた。
月明りだけの室内は、現実とはかけ離れているようで、夢の続きではないのかと、錯覚していた。
「ねえ、蒼」
「え?」
「キス。していい?」
「——関口……」
肯定も否定もしていないのに、関口の心は決まっているのだろうか。ふと関口に視線を向けようと持ち上げた顎を取られて、引き寄せられた。
そのキスはものすごく軽いものだった。触れるか触れないかのほんの少しの接触で——。蒼は目を瞑るのも忘れて、ただ関口を見つめていた。関口は唇を離すと、ぷいっと顔を背けて「ごめん」と言った。
「なにもしないって、言ったかもしれないけど。やっぱり無理だね。ごめん——嫉妬。ただの醜い嫉妬だよ」
——それって。
蒼は顔が熱くなった。
「朝までゆっくり眠るといい。僕は別の部屋で寝るから。おやすみ。蒼」
彼は恥ずかしいのだろうか。立ち上がったかと思うと、さっさと部屋から出て行ってしまった。点滴に繋がれている蒼は、追いかけることも叶わない。ただ、なんだか胸がチクチクしてどうしたらいいのかわからなかった。
— 第三曲 了 —
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