第10話 吠える犬は噛まない 



 目的の部屋の前に立ち、圭一郎がドアチャイムを押す。しかし、中からの返答はすぐには返ってこない。関口は逸る気持ちを抑えきれなかった。「どいて」と圭一郎を押しのけて、ドアを叩く。


けいくん。他のお客様のご迷惑になりますよ」


 有田の制止を振り切って、関口は英語で怒鳴り、ドアを叩き続けた。


「Sholl! Is there one? Come out! Give me back the Ao!!

(ショル! いるんだろう? 出てこい! 蒼を返せ!!)」


 しばしの間があり、ドアが開く。するとショルティが顔を出した。彼はシャツのボタンを外し、リラックスした風体だった。関口はそれがまた面白くなく思った。


「Goodness gracious. The appearance of the knight?

(おやおや。ナイトのご登場か)」


「What's up with Ao?

(蒼はどうした?)」


「If it's Ao——

(蒼なら——)」


 ショルは部屋の中に視線を向ける。それに釣られて中を覗き込んでから、「どけ」と彼を押しのけて室内に入り込んだ。


 出入り口から中に入り込むと、そこは広々とした空間に応接セットが配置されている。——が、蒼の姿はない。関口は辺りを見渡し、扉が半分開いている部屋へ押し入った。


「蒼!」


 そこは寝室だ。蒼はベッドの上で横になり、返答がない。関口は慌てて彼に駆け寄った。


「おい。蒼? ねえ、大丈夫——……」


 仄かに目元が赤い。彼は寝入っていたのだろうか? 関口の声に睫毛が震えた。


「——関口?」


「蒼? 大丈夫? どうしたの?」


 どことなしか、蒼の呼吸が荒く感じられた。


「喘息の薬は?」


「——家。ごめん……関口」


 蒼の声はかすれていて、耳を寄せないとよく聞こえなかった。


「なに?」


「お酒。飲み過ぎた……」


「おバカさんだね。蒼って。本当に……」


 関口は蒼の額に手を当てる。暖かいその額は、彼の体調が悪いことを物語っているようだった。


「ごめんね。関口——」


 潤んだ熱っぽい視線で見上げてくる蒼に、堪らない気持ちになった。関口は振り返ってショルティを見据えた。


「Ao is not a hostess! I want you to refrain from treating me like a fool like this.

(蒼は接待役ではない! こういうバカにしたような扱いは控えて欲しいな)」


「Entertainer? It's not like that, is it? I liked Ao. He's cute.What is Kei Ao? Ao couldn't answer. ——So you're nothing.

(接待役? そんなものではないだろう? 僕は蒼が気に入った。彼はキュートだ。蛍は、蒼の何なんだ? 蒼は答えられなかった。——ということは、お前たちは、ってことだろう)」


 ショルティは、寝室の入り口でニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべていた。


「Even though I can't go out into the world. You can be sloppy with your knightly spirit. If you're doing something half-hearted, I'll get Ao.

(世界に出られないくせに。騎士気どりもいい加減にしたらいい。そんな中途半端なことをしているんだったら、僕が蒼をもらう)」


 ——なんだって!?


 関口は頭に血が上るのがわかった。こんなことをしても無意味だと、理性は警告しているのに、躰が勝手に動き出す。ショルティにとびかかり、彼のシャツの胸倉を掴まえた。


「You!(お前!)」


「Oh~, I'm scared. I'm serious, aren't I? Hotaru likes blue, doesn't she? However, it is useless as it is. Such small thoughts don't work in this world. Okay? If you don't have the ability, stay away.

(お~、怖い。本気なんじゃないか。蛍は蒼が好きなんだね。しかし、今のままでは無駄だ。そんな小さい思いなど、この世界には通用しないんだ。いいか? 実力がない奴はひっこんでいろ)」


 ロビーで父親から突き付けられた言葉と同じだ——と関口は思った。一瞬、心が揺れる。


 ——蒼を幸せにする資格なんて、僕にはない。そんなこと、知っている。


 蒼のためと理由をつけて、熊谷家で挨拶をした。こんな、うだつの上がらないヴァイオリニストなど、すぐに限界が来るに決まっているのだ。


 ——僕は蒼に相応しくない。


 ずっと、心の奥底で渦巻いている気持ちが、いっきに表出した。その卑下するような気持ちはものすごい力となって、関口の思考を支配する。目の前が真っ暗に見えた。

 

 ——ショルの言葉がよく聞こえない。


「——What do you think?

(——するんだ。どうだ?)」


 ——うるさい……。


 ——だからなんだ。


 ——僕は、僕だ。


「So...... What!

(だから……なんだっ!)」


 関口は、もう一度、意識を持ち直し、それからショルティのシャツを掴み上げた。


「Only the swagger is good."Hunde die bellen beisen nicht".A barking dog doesn't bite – after all. You can't do anything with your mouth.

(威勢だけはいい。Hunde die bellen beisen nicht.吠える犬は噛まない——結局。キミは口ばかりでなにもできない——)」


「What can't I do? I can do anything! I'm free to do music without being constrained by anyone.

(なにができないというんだ? 僕はなんでもできる! 誰に制約されることなく、僕は自由に音楽をやっているんだから——)」


「Wow. So you're going to accept my offer?

(ほほう。では、僕の申し出を受けるというのだな?)」


 ——申し出?


 関口は、一瞬。言葉を失った。そしてつい周囲にいる人間たちを眺める。蒼は心配そうな顔。圭一郎は笑みを浮かべている。そして、その隣にいる有田は大きくため息を吐いた。


 ショルティは愉快そうに手を叩いて、それから大きな声でゆっくりと言い放った。


「It's a promise. kei. You're entering the Cologne New Violin Competition.

(約束だぞ。蛍。キミは、ケルン新人ヴァイオリンコンクールにエントリーするんだからな)」


 ——なんだって!?


 関口はその言葉の意味に、一瞬足が竦んだ。







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