第9話 父と子



 イライラしていた。コンサートマスターの貝塚に「荒れた音を出すんじゃないよ」と苦言を呈されたが、そんなことはお構いなしだ。


 明星オーケストラの定期演奏会を終え、関口はホール脇に停車していたタクシーに飛び乗った。


「今日、お前の親父さんが来て、蒼を連れて行っちまった——」


 星野の電話越しの声が耳の奥で響いていた。


 ——あのバカ親父! ただじゃ済まさないから!


 楽器ケースを抱え、有田から聞き出した場所に向かう。 


 有田は少なからず関口に悪いと思っているのだろう。公演の休憩時間に何度も電話をかけてやると、つい先ほど折り返しの連絡が入ったのだ。


 有田は簡潔に要点だけ述べた。ショルティが蒼に一目会わなければ、今夜の公演の指揮を降りると言い出したこと。そのおかげで、師匠であるガブリエルに泣きつかれ、蒼をやむなく借りたということ。そして今まさに、ショルティと蒼が二人きりの時間を過ごしているホテルの名を告げた。


 ——やむなくってなんだよ! 蒼は関係ないだろう!? 蒼は接待役じゃないんだから。


 ムカムカが止まらない。ぶっきらぼうに行先を告げ、そのまま押し黙る。運転手は大して気にも留めないかのようにタクシーを走らせた。


 車窓から見えるネオンや人の波を見ていると、余計に心が落ち着かなくなる。


 父親への憤りが先行しているものの、心のどこかで、成功者の我儘が全てまかり通るこの世界の仕組みにも腹を立てていた。

 

 それと同時に、蒼の身が心配だ。関口はゴシップのような噂に興味はないが、宮内は大好きなタイプ。今日はもっぱらショルティの話ばかりする。その中で、ショルティという男は異性関係にはだらしなく、関係者は頭を痛めているということも聞いた。

 

 蒼は男だ。だから安心——ではない。この業界。いくらでもそういう嗜好を持つ人間がいる。芸術家の特性なのだろうか。「美しい」「甘美」「魅力的」そんなものが当てはまるなら、対象はなんだっていいのだから。


 しばしの間、気を許せば大声を出して怒りをぶちまけたくなってしまう自分との葛藤をしていた関口だが、タクシーはスムーズに目的のホテルの前に到着してくれた。


 ロビーには有田がいた。そして——。


「この馬鹿親父! なにしてくれてんだ!」


 周囲のことなど眼中にもない。関口は一目散にソファに座っていた圭一郎の元に歩み寄り、そして彼につかみかかった。


「あ~あ。やっぱり見つかっちゃうよね」


 圭一郎は有田を見上げる。有田は眼鏡をずり上げて、表情を変えずに答えた。


「私は当然のことをしたと思っております。マエストロ」


「そうだね。有田は正しいよ」


 彼はそういうと、関口をまっすぐに見据えた。


「腰抜けの我が息子よ」


「は、はあ?」


 圭一郎は関口の手を振り払って立ち上がる。すらっとしたその出で立ちは、息子である関口をも威圧する雰囲気だった。


「いいか。息子よ。この世界は実力のみが物を言うのだ。今晩。この東京に、輝かしい新星が降り立った。お前はこれからどうしたいのだ?」


 関口はたじろぐ。あまりにも真っ直ぐな視線を受け止めきれなかったのだ。


「な、なにを。僕は、そんな話をしにきたんじゃない」


「いいや。そういうことだ。——蒼はショルティと一緒だ」


 ——なぜショルは蒼に興味を持つ? まさか。あの待ち受け? やっぱり見られていたんだ。


 関口はショルティとの最初の邂逅を思い出していた。


「ショルティは蒼のことを、いたくお気に召している様子だ。だが、お前はショルティに物申せる立場ではないのだぞ。さあ、どうする? 息子よ」


 圭一郎の言葉は関口の胸にぐっときた。 


「なにを……今晩、日本でデビューしたからって、なにをしてもいいということにはならないんだから……」


「そうか。だがその、日本デビューを果たし、世界中に名の知れ渡るショルティと、日本の一交響楽団のただのファーストヴァイオリニストのお前では、格が違うのだ。お前に蒼を守るだけの力は、なにひとつないのだぞ?」


 ——そんなこと、知っている! だけど。


「だからなんだ。それとこれとは関係ないはずだ」


「関係あるだろう? お前はわかっているはずだ。我が息子よ。お前は、蒼をどうするつもりだ? 蒼を幸せにしたい、なんて甘いことを考えているのではないだろうな? 養ってもらっているくせに!」


「マエストロ」


 有田が仲裁に入ろうとするが関係ない。関口はじっと父親を見据えていた。


 ——全て見透かされていることは知っている。だけど。


「僕は僕だ。僕のやり方がある」


「だが周りは、そんなお前をそっとしてはくれないのだぞ? けい。もうそんな段階ではないのだ——わかるだろう。お前自身が」


「そんなことは……知っている」


 ——知っているけど。どうしたらいいのかなんて、わからないんだ。


 自分よりも先に飛び出していく人たちを、指をくわえて見ていることしかできない。どうしたらいいのかなんてわからないのだ。

 

 ギリギリと奥歯を噛みしめて父親を見据える。だが、言い返す言葉など見つかるわけもないのだ。父親と自分の間には、大きな、とてつもなく無限大の隔たりがある。親子だからこうして噛みつくことができるというだけの話。本来ならば、言葉すら交わすこともままならないくらいの立場の差が、ここにはあるということを知っているからだ。


 圭一郎はいつもの柔らかい笑みを消し、厳しい眼光で関口を見ていた。


「来い。蛍。蒼のところに案内してやろう」


「マエストロ」


「いいのだ、有田。息子に現実を教えるのは親の仕事だろう?」


 いくら嫌っていても、憎んでいても。この男は自分の父親なのだ。こうして時々ふらっと現れては、自分に辛い現実を突き付ける。かといって、救ってくれるわけでもないのだ。


 父親らしいことなど、一つもしてもらったことはない。いつも崖から突き落とす。手を差し伸べてくれたことなんてなかったじゃないか——。


 巨大すぎる影は、まるで亡霊みたいにも見えた。


 関口はそんな父親への思いを胸に押し込めながらエレベーターに乗った。




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