第6話 ミニマム



 圭一郎に連れられて、ふかふかの絨毯敷の廊下を歩く。芸術ホールだというのに、ホテル並みの仕様に、蒼は開いた口が塞がらなかった。


 ——これが東京のホール。


 蒼にとっての音楽ホールは星音堂せいおんどうだ。それが全て。それ以下もそれ以上もなかった。


 それなのに。このホールは完璧だった。外見はヨーロッパの城風であったが、中に入ってもそれを見せつけられる。入口から足を踏み入れると、そこは、まるで舞踏会でも開かれそうなくらい華やかな造り。


 吹き抜けの大きなホワイエ。床には真紅の絨毯が敷き詰められ、二階フロアから伸びてくる階段は優雅な曲線を描いていた。


 天井にきらめく橙色だいだいいろのシャンデリア。重厚感を与えてくる石造りの壁。そこには、大きな油絵の絵画が掲げられていた。


 二人は慣れた素振りで、一般客の出入りする場所から逸れ、影の廊下に足を踏み入れた。表舞台は豪華絢爛であるが、一歩でも裏方に入れば、そこは閑散とした事務的な廊下だった。


 やっと星音堂の内部構造も熟知してきているところだが、ここは一年が経過しても、理解できそうにないくらい入り組んでいる。蒼にとったら、まるで迷路だ。長身の二人の歩幅には到底及ばない蒼は、ついていくだけで必死だった。


 ——はぐれたら、絶対、迷子になる!


 生成り色のシンプルな扉の前に立った圭一郎は英語で大きな声を上げた。


「Porpoise? Sholl.

(いるか? ショル」


 中からは英語の返答が返って来るか否や、その重い扉が豪快に開いた。


「Keiichiro? It's late! What does that mean!? Promises are different!

(ケーイチロー? 遅いよ! どういうことなの!? 約束が違うじゃないか!)」


 そこに立っていたのは、圭一郎よりも少し低い身長の金髪碧眼の男だった。彼は英語で矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。英語は苦にならない蒼ですら聞き取るのに難儀した。


「It's late, I returned home this morning.

(遅いって、こっちは今朝、帰国したんだぞ)」


「Japan is small. It shouldn't take that long!

(日本は小さいんだ。そんなに時間がかかるはずない!)」


「It's going to take a while. Don't make fun of Japan.

(かかるんだ。日本をバカにするんじゃないよ)」


 しかし男は、圭一郎の話など聞く素振りもない。きょろきょろと周囲の様子を伺い、そして、唖然として小さくなっている蒼を見下ろした。


「What! ——Huh!

(え! ——え!)」


 彼は絶句したように蒼を見据えている。


 ——どうしよう。期待に沿えなかった? これじゃ演奏会、できないんじゃ……。


 そう思った瞬間。男は蒼を両手で掴まえると、前後に揺さぶった。


「Wow! It's more than you can imagine! More than you can imagine! God is still on my side!

(おおおおお! 想像以上だ! 想像以上! 神はやはり僕に味方するのだ!)」


 ——あわわ……。


「Why don't you stop? Shōll. Ao is a man, but unlike you, he is soft-built. It's not something to be treated that roughly.

(やめないか。ショル。蒼は男だが、お前と違って柔な造りだ。そんな乱暴に扱うものじゃないよ)」


 圭一郎は男をたしなめた。しかし、そんなものは関係がないらしい。思い切り引き寄せられたかと思うと、ぎゅうぎゅうと抱きしめられた。骨が軋む。


 ——い、痛い!


「Japan people are small, but increasingly small. Is it a child? How old are you? How old are you?

(日本人は小さいが、ますます小さい。子どもなのか? 何歳だ? キミは何歳なの?)」


 蒼は慌てて英語で返す。


「23……」


「What! Wow! There are so many small adults. Keiichiro and Alita are both big, so I thought they were all big, but ....... No. Wait. The members of the orchestra I played the other day were also mixed with adults who looked like children. Japan people are small. Minimum!

(なんと! なんとぉ! こんなに小さい大人がいるのだな。ケーイチローもアリタも大きいから、みんな大きいのかと思っていたが……。いや。待てよ。この前演奏したオケのメンバーにも子どものような大人が混ざっていたな。日本人は小さいのだな。ミニマム!)」


 彼はぶつぶつとそう呟くと、そのまま蒼の目を覗き込んだ。


「It's pitch black. Pitch black. I see. I see.

(真っ黒だ。真っ黒。なるほど。なるほど)」


「Come on. It would be a promise that we would only meet. Don't touch it. Sholl.

(いい加減にしろ。会うだけというのが約束だろう。触れるな。ショル)」


 圭一郎の声に、さすがに男は蒼を解放した。


「After all. Keiichiro. I was curious. Why doesn't Sekiguchi leave Japan? I thought this was the answer, but ...... was her. Found. I won't touch on it any more.

(だって。ケーイチロー。僕は興味があったんだ。なぜセキグチが日本から出ないのか。その答えはこの子じゃないかって思ったんだけど……。わかった。これ以上は触れない)」


 男は両手を上げて肩を竦めた。蒼は目の前がぐるぐると回っていて、なにがなんだかわからない。一体、どういうことなのだろうかと疑問に思っても、自分の中に答えはないのだ。考えるだけ無駄だ。


「Shōll I've brought Ao with me. The promise?

(ショル。蒼を連れてきたんだ。約束は?)」


「I know. Keiichiro. I'm going to be on stage.

(わかってるよ。ケーイチロー。ステージに立つよ)」


「This kind of childish trading is unbelievable. Okay? Do it right. You're going to be a professional, so.

(こんな子ども染みた取引は金輪際なしだぞ。いいか? ちゃんとやれ。キミはこれからプロになるんだから——)」


「Keiichiro. Who do you think I am?

(ケーイチロー。僕を誰だと思っているの?)」


 ふと見せるその横顔を見つけて、蒼はぞっとした。 


 ——この人は本物だ。


 その顔は、関口がコンクールの時に見せた顔と一緒。彼の周囲の空気が一瞬で変化するのだ。


「I'm Klaus Solti. Tonight. The whole of Japan is intoxicated by me. Uh-huh——

(僕はクラウス・ショルティだ。今晩。日本中が僕に酔いしれる。えっと)』


「Ao kumagai.

(蒼です。熊谷蒼)」


「Oh I see? Ao! Please watch my first performance!

(そうか。アオ! 僕の初舞台、ちゃんと見ていてね!)」


 ショルティは両手を打ち鳴らすと、リボンタイを持ち上げてから部屋を出て行った。廊下ではショルティの関係者なのだろうか。彼らが右往左往していたが、ショルティの登場で、一同は安堵の表情を浮かべているのが見えた。それだけ切羽詰まった状況であったということが蒼でも理解できた。


 嵐のように出て行ってしまったショルティを見送っていると、圭一郎の腕を引かれる。


「席を取っておいたんだ。蒼、聴いて行こう」


「で、でも」


「終わったらちゃんと送っていくから。ね?」


 田舎者の蒼が、一人で梅沢に帰れるとは到底思えない。圭一郎に頼るしかない状況なのだ。そうすると、ここは言う通りにするしかない。蒼はそう理解して、大きくため息を吐いてから頭を下げた。


「わかりました」


「素直で可愛いね。蒼は」


 圭一郎は苦笑してから、蒼を連れて廊下を歩き出した。





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