第5話 醜い心




「今日は例のキザ王子の日本デビュー公演だろう? なんでまた日本を選ぶのかねえ」


 紙コップのお茶を飲んでいる宮内は、ネクタイを緩めて、見るからにだらしのない恰好だった。それを横目に、関口はヴァイオリンを磨きながら、大して興味もなさそうな声色で返した。


「さあねえ。親日家なことをアピールしたいんじゃないのか。ガブリエルも親日家で知られている。どうせヨーロッパではもう名前が売れているんだ。日本での人気も得たいところなんだろう?」


 関口はふと手を止めた。


 ——お前の演奏は興味深いな。名前は? なんという?


 先日。そう声を掛けられたことを思い出す。


 ショルティはいい音楽家なのだと思う。ただ、自分が素直になれないだけだ。自分よりも少し若い彼は、もう世界に羽ばたこうとしているのだ。それをひがんでいないと言ったらウソになる。しかし、彼だって、苦労もなしに今のポジションを手に入れたのではないことだって、重々承知なのだ。


 ——集中できない。


「貝塚さん。この前のショルティがデビュー公演らしいですね」


 宮内は、すぐ近くに座って楽譜を眺めている貝塚に声をかけた。彼は恰幅のいいお腹を揺らしてから顔を上げた。


「あの坊やか。あの見てくれだからな。さぞ人気が出るだろうよ」


「貝塚さんがほめるなんて珍しい」


「ガブリエルの流れを濃く受け継いでいる。ガブリエルは、躰が弱いからな。早く後継者を育成したいんだろうって、もっぱらの噂だ。ちょっとデビューには早いのかも知れないが、あとは経験で補おうって魂胆なんだろうよ」


 貝塚はそれから関口を見た。


「おい。焦るなよ。関口」


 なにも言っていないというのに。貝塚はまるで関口の気持ちを見抜いているかのように言った。関口は口元を緩めて「焦ってなんていないですよ」と返す。しかし、思っているよりも声が上ずった。


「業界の陰口なんて気にするなよ」


 ——業界の陰口など気にはしていない。


「関口圭一郎の息子のクセに。大した功績がない」


「地味なキャラだ。父親とは似つかわしくない」


 そんなことを言われているのは知っている。音楽業界の出版会社も注目していれば、いつかすっぱ抜けるのではないかと思われていたのだろう。付きまとわれたこともあった。しかしそれも最初だけだった。今では誰も見向きもしない。


 ——別にいいんだ。そんなことは。ただ。自分自身が許せないだけだ。


「関口。お前は、なんでもいいからコンクールに出ろ」


「貝塚さん」


「国内はダメだ。海外のコンクールにするんだ。失敗なんて恐れるなよ。お前には経験が必要だ。出るというだけでいい。その経験はお前のかてになる」


 彼は真面目な顔をしていたが、ふっと笑みを見せる。


「まー。お前の実力なら上位には食い込めると思うがな。メンタルさえしっかりさせればな。恋人でも作れ。守るものができれば、男っていうのは強くあれるものだ! 繊細な二世くん」


「貝塚さん!」


「あはは。言える。けいってさ。メンタル豆腐だもんな~」


 宮内にまでからかわれて面白くない。


「せっかく明星の正式メンバーになったのに。コンクールなんて言ったら、ここに居られませんよ」


「そんなものはどうでもいいだろう? 休団でもしておけ」


 貝塚は豪快に笑う。


「お前が抜けても、その席に座りたい奴はごまんといるんだ。おれたちは困らんよ」


「そうそう。おれがコンマスになってるかも」


 宮内は「へへ」と貝塚を見る。


 この世界は弱肉強食だ。こうして仲良く話をしていたとしても、実力で評価され、あっという間にポジションチェンジだってあり得るのだ。貝塚は、常に若い者たちに追い立てられている過酷な席に座っている。少しでも腕を落とせば、敗者として去る——。それが音楽の世界だ。


「言ってくれるね~。宮内ちゃん。いいぜ~。勝負と行こうじゃないか」


 そこに百間もんまも混ざる。


「えー。コンマス試験やるんですか? おれも出ようっと」


「百間さんも?」


「当然だろう? 貝塚さんの席。みんなの憧れだろうが」


 三人が盛り上がっている様子を眺めて、関口はため息を吐いた。ショルティが日本、しかも東京でデビュー公演を開催することを知ったのは、昨日だ。他の音楽家たちの動向を把握するほど、自分には余裕がない。昨日、ゲネプロ前の休憩時間に宮内が持ってきた情報だった。


「ドイツのオーケストラ引き連れて、プロコフィエフのフルート協奏曲と、ストラビンスキーの火の鳥だってよ。火の鳥はなんと、原典版らしい。若手にしては意欲的選曲だって書かれていたぞ」


 ——だからなんだ。自分は自分じゃないか。焦ったって仕方がない。


 そう思えば思うほど、心の奥がざわついて、落ち着かなくなった。


 日本国内の二番手オーケストラの、しかも一般ヴァイオリニストで収まっているのは、自業自得なのだ。コンクールを避けてきたそのなれの果て。必然なのに——。こうして同年代が活躍している姿を見るのが辛い。


 ——僕は一体……。


 ショルの師匠であるガブリエルと、関口の父親は親友だ。父親の口からよく名前を聞くし、自分が子どもの頃、ガブリエルが自宅に姿を見せたことを何度も目撃してきたからだ。本来ならば、指揮者同士のライバルであるはずの二人だが、関口圭一郎という男は、そういう小さい事にはこだわらない性格だ。人類みな兄弟。同じポジションにいるならば、切磋琢磨していいものを作り上げようじゃないか! そんな調子なのだ。


 人を蹴落として自分が上に行く。そんな世界にあっても、彼は人脈を広げ、様々なアーティストたちと手を取り合って自分の世界を築き上げている。


 その寛容さ。懐の広さを目の当たりにしてしまうと、自分の嫉妬心やひがみなど、本当に愚かな、無意味なものに見えて、関口は余計に落胆するのだ。


 ——気分が悪いな。


 関口は愛器を磨きながら大きくため息を吐いた。すると、スマートフォンが鳴った。相手は星音堂せいおんどうにいる星野だ。


 彼が電話を寄越すなんて珍しい。関口は楽器をそこに置くと、腰を上げた。


「なんだよ~。好きな子?」


「違う。放っておけ」


 にやにやとしている宮内を残し、関口は廊下に出る。


「もしもし。関口です。どうしたんですか。星野さん。——え? 蒼が?」





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