第4話 我儘プリンス



「課長。一体なんなんですか。あれじゃ、人身売買ですよ。蒼がかわいそうです」


 蒼が出て行った事務所で、吉田が抗議の言葉をまくしたてていた。水野谷はデスクのところに座って苦笑いだ。


「仕方ないじゃない。あのマエストロの頼みだもの。無碍にもできないし。蒼には申し訳ないけれど、誘拐されるわけでもないでしょう? 大丈夫でしょう。マエストロだもの」


「だから危ないんじゃないですか!」


 吉田は本気で怒っている。鳥小屋掃除を押し付けられたからではないということは、周囲の目から見ても明らか。


 確かに腑に落ちない。業務を中断しても優先すべき内容なのだろうか。これは只事ではないと思った星野は、二人のやり取りを横目に見ながら、デスク上のスマートフォンを手に取った。


「課長、どんな取引したんですか。教えてくださいよ」


「取引だなんて。失礼な言い方はやめてくださいよ。僕は、マエストロの願いを聞き入れただけです。純粋に、ね」


 そんな話をしている氏家たちを残して、星野は廊下に出た。外は肌を刺すような暑さだった。

 それから周囲の様子を伺いつつ、電話を掛けた。


「あ、もしもし。おれだけど——。悪りいな。今日は定期演奏会だったっけ? あのよお。ちょっと緊急事態だ。お前には言わないわけにはいかねえだろうって思ってな。本番前だけど、電話した」


 薄暗い廊下に星野のくぐもった声だけが響く。なんだか不穏な空気はここでも漂ったままだった。



***



 蒼たちが東京駅に降り立ったのは夕方の五時を過ぎていた。蒼は東京に足を運んだことは数えるほどしかない。あまりの人の多さ。その騒々しさに唖然としてしまう。


 しかし、そんな余韻に浸ることなど許されるわけもない。有田に腕を引かれ雑踏の中をどんどん突き進む。うかうかとしていると、人にぶつかってしまいそうだ。


 「すみません、すみません」と謝罪することで精いっぱいだ。あっという間に外に出たかと思うと、圭一郎と一緒にタクシーに押し込められた。


「東京芸術コンベンションホールへお願いします」


 有田の依頼に、タクシー運転手は車を走らせた。


 圭一郎は、新幹線に乗っている間、眠っていた。365日、少しも躰が空かない多忙な彼が、それを乗り切るのは、そのどこでも寝られるタフさなのかもしれない。有田の話では、今朝早くにドイツから帰国したばかりだという。それなのに、梅沢への往復。一体、それほどまでのことが、控えているのかと思うと、蒼は不安で堪らなくなった。


 ともかく蒼は、都会に馴染むような人間ではない。人の多さ。煌く街並みだけで、眩暈めまいがしているというのに。なぜここに連れてこられたのか教えてもらえないのだ。


 タクシーに乗ってからは覚醒し、車窓から外の様子を眺めている圭一郎の腕を、蒼はつかんだ。


「お父さん。あの。教えてください。じゃないと。おれ。どうしたらいいのか」


 圭一郎は、「そうだな」と軽くため息を吐いた。そして蒼を優しい瞳で見た。


「悪いようにはしない。キミはけいのお嫁さんだからね」


「だから、それは……もういいです。それよりも、その。なぜおれが東京に来なくてはいけないのでしょうか。東京芸術コンベンションホールって、関口と関係があるんでしょうか?」


 蒼は関口の予定を詳しくは知らない。今晩は確か演奏会があるとは聞いていたが、どこで、どんな曲を演奏するかも知らないのだ。


「いいえ。蛍くんの件ではありません。——マエストロ。そろそろ、蒼さんにお話しされたらいいのではないでしょうか。本人への説明なしに、東京まで引っ張って来るだなんて、これでは誘拐ですよ」


 タクシーの助手席に座っている有田はルームミラー越しに圭一郎を見据えている。圭一郎もそれを受けて肩をすくめた。


「事の発端は蛍だ。あの子がね。君が好き過ぎて、スマホの待ち受けになんてしておくから悪いのだ」


「——え?」


 ——関口がおれの写真を待ち受けに?


 一緒に暮らしていても、彼のスマートフォンを見ることはしたこともない。まさか、そんなことをしているだなんて——。蒼は顔が熱くなる。


 ——な、なにしてんだよ。あいつ……。


「先日。僕の友人である指揮者がね。日本で公演をしたんだ。その時に、くっついてきた一番弟子の子がねえ。どうやら君のその写真を見たようなんだ。蛍のやつ。見せびらかしたのかな?」


 蒼はますます顔が熱い。


「ば、ばかなんじゃないの……」


 蒼はもう、涙が出そうなくらい恥ずかしい。関口蛍という男は、一体なにをしているのだと思ったのだ。


「その一番弟子くん。日本人に大層興味を持ったようだ。そして本題だ。今日はその一番弟子くんのデビュー公演があるんだが……。日本に来た途端に、君に一目会わないと指揮を振らないというんだ。まったくね。わがままにもほどがあるよね。この二日間、ずーっとホテルでストライキを決め込んでいる。ドイツにいる僕の友人は、ほとほと困ったようで、昨日僕のところに電話を寄越したんだ。『なんとかしてくれ』ってね」


 圭一郎の言葉はわかった。圭一郎の友人である指揮者の弟子が、自分に逢わないと指揮を振らないと駄々をこねているということだ。だがしかし。


 ——な、なんでおれ?


 その原因は関口の待ち受け画面だという。蒼にとってみたら、自分の全く知らないところで、いろいろなことが起こっていて、そして急に舞い込んだという流れ。


 狐に化かされたような感覚に陥るのは当然のことである。


「——悪いね。蒼。申し訳ないんだけれども、どうだろうか。彼に会って欲しいんだ。会うだけでかまわないよ。お願いできないだろうか」


 ここまで来てお願いされても「嫌だ」とは言いにくい。蒼は「わかりました」と返答をした。圭一郎は嬉しそうに笑顔を見せる。蒼は一瞬、その笑顔に引き込まれてしまった。


 関口圭一郎とは、やはり世界中で人気の高いマエストロなのだ。彼のその人柄に誰しも惹きつけられる。その魅力はいや応なしだ。どんな理由も存在しない。


 しかし、そんな妄想もすぐに中断された。有田の声が聞こえてきたからだ。


「蒼さんがお断りできない段階まで強引に持ち込んで、今更お願いだなんて。いい大人のする交渉ではありません。フェアではない」


「そんなきついこと言わないでよ。有田」


「蛍くんに知られたら、ますます嫌われますよ。マエストロ」


 有田はそう言ってから蒼を見た。有田は、蒼のことを気遣ってくれているのだろう。そう感じとった蒼は、首を横に振った。


「こんなおれでも役に立つなら嬉しいです。その人。指揮してくれるでしょうか? こんなおれなんかと会っても、大した面白味もないと思うんですけど」


「いやいや。蒼は、それはそれは素晴らしい——」


「マエストロ」


 有田の声が遮った瞬間。タクシーの速度がぐっと遅くなった。目的地に到着したのだろう。


「さて。我儘なプリンスのご機嫌でも取ろうじゃないか。蒼。よろしくね」


「はい」


 蒼は有田と圭一郎に促されて、中世ヨーロッパの城のような風格を持っている芸術ホールを見上げた。




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