第3話 「お主も悪よのぉ」案件


 蒼は首を傾げて水野谷を見据えた。彼は一人ではなかったのだ。しかし明るい場所から、堂内は薄暗すぎてよく見えなかった。


 仕方なしにバケツをそのままにして腰を上げる。それから手袋と雑巾とを、その場に置いてから水野谷の元へと歩み寄った。


 水野谷は、丸眼鏡をキラキラと光らせて、人の好さそうな笑顔で蒼を迎え入れてくれた。


 堂内に足を踏み入れると、そこには見知った、だが久しぶりに見る顔があった。


「やあ。蒼——久しいね」


 水野谷の後ろに立つ男たちは、彼よりも長身。そして針金のように痩躯。


「お父さん——、あ、あの。ご無沙汰しております!」


 ——なんで、このタイミングで? まさか父さんが連絡したんじゃ……。


 それはあり得ることだった。なにせ蒼の父親である熊谷栄一郎と、関口の父親である関口圭一郎は「一郎」つながりで、親友だったという話だ。


 圭一郎は蒼の母親であるうみの事情もよく知っているようだし、栄一郎が関口の性癖を知っているということも含めて考えると、先日の挨拶騒動が、圭一郎の耳に入っていてもおかしくはないと思ったのだ。


 蒼はドキドキして頭を下げた。圭一郎は「嬉しいね!」と手を打ち鳴らした。


「え? え?」


「『お父さん』って! 以前にもまして、蒼にそう呼ばれることが、こんなにも嬉しいとは! なあ、有田」


「私に言われましても……お気持ちはわかりますけれども」


 関口圭一郎の後ろに立っていたもう一人の男は、銀縁の眼鏡をずり上げてため息を吐いた。彼のマネジャーをしている有田という男だ。


 昨年、梅沢市民オーケストラの定期演奏会を鑑賞するためにやって来た時も、有田は圭一郎と一緒だった。


 この突き抜けて元気な関口圭一郎と共に時間を過ごすということは、拷問にも近い。有田という男は相当忍耐強いのか、それとも、まったく気にしなくていられる体質なのか、蒼は理解できないと思った。


「あ、あの……」


 蒼は水野谷を見つめる。なぜ自分が呼ばれたのかと疑問に思ったからだ。しかしそれに答えたのは水野谷ではなく、圭一郎だった。


「蒼。僕はキミに頼み事があってやってきたのだ」


「え? おれ——ですか?」


 蒼は目を瞬かせる。圭一郎は蒼の右手を取ると、まるで女性をダンスにでも誘うかのように腰を屈めた。その仕草は優雅。思わず息を飲んで、蒼は顔を熱くした。


「これから、僕と一緒に東京に行ってはもらえないだろうか?」


「こ、これから、ですか?」


 ——でも。え? だって。仕事中で……。


 蒼は水野谷を見る。彼はにこにこと笑みを浮かべていた。


「これはマエストロのたっての願いだからね。僕の権限で、適当に出張扱いにしておいてあげましょう。——その代わり。有田さん」


 意味深な水野谷の言葉に、有田は大きく頷いた。


「ええ、もちろんです。水野谷課長」


「え、え? なんなんですか」


 二人は視線を合わせる。水野谷は心なしか笑みを浮かべているのは気のせいではない。蒼の脳内には、時代劇の「お代官様」、「お主も悪よのぉ」という台詞が駆け巡った。


 これは只事ではないと、一瞬で察知したのだった。しかし水野谷は、ニマニマを隠すためか、咳払いをしたかと思うと、さっさと吉田を呼びつける。


「いいや。これはこっちの話だ。さあ、蒼は気にせずに支度をして。——おーい! 吉田~」


 水野谷の声に事務室から吉田が顔を出した。


「なんです? 課長」


「ああ、吉田。蒼は早退するから。鳥小屋掃除の続きをやっておいてちょうだい」


「え! お、おれですか~」


「吉田は蒼の教育係でしょう? ささ。文句を言わないで取り掛かりなさいよ」


 水野谷は蒼を事務室へ。吉田を中庭へ急き立てた。不審げな星野たちの視線を受けながら、蒼は荷物を抱え上げると、背中を押されて事務室から連れ出された。


 そして有田に連れられて、そのまま外に停めてあったタクシーに押し込まれた。


 既に乗り込んでいた、長身の圭一郎の隣に収まってみると、なんだか自分がみすぼらしく感じられるものだ。体格の差ではない。オーラの違い。スターと一般人の違い、とでも言うのだろうか?


 遅れて助手席に座った有田は、腕時計を見る。


「予定通りですね。とんぼ返りになりますが、間に合うでしょう」


 「駅まで」という有田の合図を受けて、運転手は車を走らせる。


「あ、あの。東京って——、一体?」


 蒼は狼狽えていた。状況がまったく理解できないのだ。圭一郎は、「ああ」と蒼を見下ろした。


「我が息子が悪いのだ。蒼。あのバカを許してやってくれ。あいつは悪い人間ではないのだぞ。親として息子を褒めるのはなんだが、根は素直だ。しかし多少……いや、それでは語弊があるな。捻くれているところはある。これは親としても理解しているところだ。僕は、それは真摯に受け止めているつもりだ。だかな。今回は多分、無意識。そうだ。それか、あまりの嬉しさにはしゃいだ結果だろうな……」


 蒼には圭一郎の言っている意味がわからない。そもそも、彼の思考のスピードにはいつもついていけていない。昨年、出会った時もそうだ。星野が間に入ってくれたので、かろうじて意味を理解した。そんなことが鮮明に思い出される。

 

 一人で先に進んでいく圭一郎の腕を掴んで蒼は声を上げた。


「あ、あの! 関口がなんだっていうんですか? 関口に関係があるんですか? この東京行きは、関口のせいなんですか? お父さん!」


 蒼は必死だ。なにせ自分の身に降りかかっていることの意味を知らないのだ。しかし圭一郎は、満面の笑みを浮かべて、狭いタクシーの中で両手を広げ、それから大きな声で叫んだ。


「おお。なんと心地いいのだ! 有田。お父さん、だぞ!? 蒼が僕のことをお父さんと呼んでくれるのだ! 蒼! 栄一郎から電話があったよ。我が息子がキミにプロポーズをしたんだってね!」


「ぷ、プロポーズではなくて……」


 蒼は思わずルームミラー越しにタクシーの運転手を見る。中年の運転手は極力、圭一郎を見ないようにしているのだろう。チラチラと視線が合うものの、すぐにそれは外れた。絶対に訝しがられている証拠だ。


「いやいや。栄一郎に頭を下げたのだろう? よくやった! でかした! と僕は息子を褒めてやりたいと思っている」


「あ、あのですから」


「マエストロ。蒼さんの質問には、きちんとお答えするのが筋というものですよ」


 しかし有田の言葉など、まるで聞こえないかのように、圭一郎は話を進めた。


「そんなキミに、こんなお願いをすることになろうとは……。まったくけいというやつは、仕置きが必要だな。自分の最愛の人間をこんな、こんな」


 ——結局は、なんだっていうんだ!? おれはどうなるの!?


 蒼は目の前がぐるぐると回っていた。陽介の件から、思考回路がショートしそうなくらい、色々なことが立て続けに起こるのだ。


 この星音堂せいおんどうに来てからというもの、心休まる時間がほとんどない。


 ——関口と会ってからだ。絶対! 関口のせいだ!


 こんな意味不明な、そして恥ずかしい東京行きは始めてだ。蒼は憂鬱で心拍数が上がりっぱなしだった。学生時代に課せられた罰ゲームみたいだと思った。


 三人を乗せたタクシーは、梅沢駅に到着した。有田は手際よく東京行きの新幹線に圭一郎と蒼を乗せた。一体、自分がどうなってしまうのか。蒼には見当もつかなかった。








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