第2話 別の世界に住む人



 関口が熊谷家に挨拶に行ってから、一か月以上が経過しようとしていた。あれから、陽介が直接、蒼にちょっかいをかけてくることはなくなった。しかし、メールは連日のように入ってきていた。


『あの男と本当に付き合っているのか』


『帰ってくるつもりはないってこと?』


『おれを裏切ったのか』


 最後のほうは恨み言ばかりだ。それは致し方ないことなのかも知れないと蒼は思っていた。陽介からもらったものを、蒼は返せていない。陽介に、なに一つ返していないのだ。しかし蒼にとったら、もうあの鳥かごに戻ることは考えられないことだったのだ。


 それよりもなによりも。今は関口との関係性が気になって仕方がないのだ。あれから、関口は特段、変わることもなく今まで通りに蒼と接してくれていた。基本的には、梅沢にいるよりも東京にいるほうが多いせいで、あまり気にならないだけなのかも知れないが。


 ——関口は男性が好き。今回のことは、おれを陽介から救ってくれようとして演技をしてくれたと思っていたのに……。だけど、だけど。キスは? あれは、本気……本気だった。関口は本気。


 あの時の彼の瞳が忘れられない。蒼をまっすぐに見据えた関口の瞳は、なんだかぎらぎらとしていて、一つも躰を動かすことができなかった。

 

 音楽を奏でている時のような、真剣な、なにかを追い求めているような……。くだらないことを言ったり、お互いに悪態を吐いたりしている時とは違う。まっすぐに、それでいて蒼を求めるようなあの瞳の色に、躰がぞくぞくとしたのを思い出す。


 一人で悶々としている蒼は、仕事に身が入らなかった。


「蒼~。いい加減にしろよ。お前の当番だろう? これ。鳥小屋の掃除。いつやんだよ」


 星野の声に、慌てて意識を引き戻してから、彼を見つめる。星野はだるそうな表情で蒼を見ていた。


 去年、星野が設置した鳥小屋は、順調に星音堂せいおんどうのシンボルになっていた。やってきた人たちが、写真を撮ってSNSに投稿してくれるのだ。そのおかげで、知名度が上がって、「あれよ」と指さして、写真を撮っている人の姿が増えている。


 そのため、掃除も念入りにするようにと、水野谷からのお達しが出ており、連日のように、日勤組の中で、掃除当番が回されていたのだった。


 画用紙を丸く切り抜いて、真ん中を金具で止めた掃除当番表に視線を遣ると、今日の鳥小屋掃除係は蒼のところを指し示している。


「あ! すみません。すぐにやります」


「ほれほれ。さっさとしろよ~」


「地鶏が! なんつって。中年になると頑張っちゃうのはシジュウカラ(四十から)!」


 無意味な親父ギャグを連発している氏家を無視して、蒼は廊下に出た。後ろから「蒼って冷たいねえ。そんな子だと思わなかったよ~。シクシク36さんじゅうろく」という泣き真似の声が聞こえてくるが、相手にしている心の余裕がない。


 蒼は廊下から左手に折れた、非常階段のところに行き、そこにある掃除用具を収納しているロッカーから雑巾とバケツ、手袋を出した。


 夏が近い。中庭に出ると、けやきの木には青々とした緑が生い茂っていた。ギラギラと照り付けてくるような日光を避け、蒼は鳥小屋の前まで歩み寄り、掃除を始めた。


「だめだめ。仕事に集中しないと……」


 今度、関口が帰ってくるのは明日だ。今日まで、今年から正式団員になった明星みょうじょうオーケストラの公演だと聞いている。


 明星オーケストラは、日本一の名声を誇るNNK交響楽団から比べると、幾分かレベルは下がるのかも知れないが、それでも民法放送のクラシック番組で頻繁に登場する有名どころのオーケストラでもある。


 先日もテレビを見ていたら、クラシック曲とアニメソングのコラボ特集番組に出演していた。


 関口は仕事の話をしてくれるが、蒼には馴染がないことばかりで、あまりよく理解していないのだ。だから、突然。テレビの画面に関口が登場すると、驚いてしまうのだ。テレビ画面に映る関口の姿を見ると、やはり自分とは住む世界が違っている人なのだと実感してしまう。


 自分は関口をどう思っているのか。

 自分は関口とどうしたいと思っているのか。

 

 ——わからない。

 

 なにもかもがもやもやと霧がかかっていて、蒼は頭がぼんやりとした中で暮らしている状況だった。


 こんなに意識散漫であるということは、事務作業をしているよりも躰を動かしたほうがいいに決まっている。蒼は力を入れて、鳥小屋を磨き続けた。それから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。昼過ぎに始めた鳥小屋掃除も佳境。そう思った時。入口から水野谷の声が響いた。


「蒼——。ちょっと」


「は、はい」


 蒼は手を止めて声のほうを見た。水野谷は建物の中でその姿はよく見えない。堂内は昼間でも薄暗いからだ。





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