第1話 男が惚れる男



「まったくねえ。我が息子は、本当に手がかかるものだね」


 空港に降り立った針金のような男は、開口一番にそう叫んだ。その場にいた他の人間たちは、男の声を聞いて知らんぷりをしているのだろう。こそこそと、その場を立ち去っていく。


 しかし、男は、そんなことはお構いなしとばかりに、隣にいた、自分とそう変わり映えのしない長身の男を見据えた。


「マエストロ。その件につきましては、愚痴は一切受け付けられません。なにせ、あなたがこのんで苦労を買って出ているだけではないですか。はっきりと言わせてもらいますが、ぎちぎちと詰め込まれているスケジュールを調整して、なんとか帰国する時間をとったんです。感謝していただきたいくらいです!」


 銀縁の眼鏡をずり上げて、ぎっと睨まれてしまうと、普通に人間であれば、狼狽えてしまうところだろう。しかし、針金の男は飄々ひょうひょうとした顔で「さて!」と話題を変えた。


「時間は限られる。さっさと仕事をしようじゃないか。有田クン」


「ですから。その無視するのはやめてください」


「え~。いいじゃない、いいじゃないか。そう堅苦しく捉えることはないぞ! こうして久しぶりに母国の空気も吸えるのだ。どうだ。今回の件は僕の私用だ。君まで付き合う必要はないのだぞ。有田クン。彼女のところにでも寄ってやったらどうだ?」


 彼はさっさと歩を進める。足が長いおかげで、凡人の倍は早く動ける男だ。しかし、有田も負けてはいない。もう何年もこうして彼と時間を過ごしてきたのだ。彼の行動パターンはあらかたお見通し。しかし、それでも予測できないことが多々起こる。

 

 だから有田は彼と一緒にいるのだ。彼のわがままに引っ張りまわされて、迷惑や苦労ばかりかけられるというのに。有田はこの男と一緒にいる時間が好きだった。彼女との時間を割いても——だ。


「そんなことおっしゃいますが。私に休暇を与えてくださったのはいつか覚えていますか? もう一年も前になりますが!」


「なんと……っ! そんな昔だったろうか? 失念してしまったな。なぜそのことを僕に言わないのだ!」


 「言ったところで無駄でしょう?」と有田は眼鏡をずり上げる。しかし、男はぶつぶつと言葉を紡ぐ。


「恋人と会えない時間、それはそれは切ないものだ。しかし、その切なさが募るほど、再会したときの喜びはない。——しかし! 君も悪いのだぞ。男たるもの、いつ何時でも、時間が限られていたとしても、最愛の者への気配りは必要だというものだ。ほら今まさに。この時間にでも彼女に電話ができるだろうに——えっと、なんだっけ? おお、そうだ。蓉子ようこくんだ。彼女はいつも日本で独りぼっちだぞ? それが男のすることか!」


 確かに彼の言葉は正論なのだ。自分は、この男——関口圭一郎という男について、一年の大半を海外で過ごす。それを選んだのは自分だ。いくらだって辞める機会はあったはずなのに。

 

 有田には、恋人がいた。大学時代から付き合っている女性である。しかし、こうも世界中を飛び回り、日本にいる時間は年に数日と限られている以上、彼女と結婚をするなどということは、夢のまた夢なのだ。

 

 ——おれもそう若くはないんだ。蓉子も、だ。


 彼女は雑誌出版会社に勤務している。彼女自身も忙しいと言えば忙しい。だが、こんな希薄な関係性を続けてなんの意味がある? そんなことを考える日々だ。


 蓉子の事は好きだ。愛している。世界中で一番大切な女性でもある。だが——。

 有田は『関口圭一郎』という男に取りつかれていた。そう。あの日から。


『キミはね。記者としての能力は皆無だな。神が与えたキミの天職はなんだと思う? そう。!』


 若いころ。音楽雑誌の記者として頑張ろうと出発したはずの自分の人生。初めての仕事で、初めて取材をしたこの男にそう言われた。それは、若かりし自分には、とてつもなく衝撃的で受け入れがたい辛辣な言葉だった。

 

 その後のことは、若造の自分にはよくわからない。後から聞いた話によると、有田のボスであった編集長は、有田を秘書として差し出す代わりに、有田が秘書をしている間は、自社の取材依頼を優先するという約束を圭一郎と取り交わしたという。


 まるで人身売買だった。


 しかし。あれから——。有田はこの仕事を自分の天職と知った。彼の言葉は予言のように的中したのだった。最初の頃は、出版会社にも所属していたが、今となっては、完全に関口圭一郎の秘書としての立場にある。もちろん、当時の編集長に泣きつかれることは未だにあるが、自分は自由の身だ。古巣を優遇するなんてことはするつもりもなかった。


「君たちは、織姫と彦星みたいでいいな。羨ましいぞ。なんとロマンチックな恋人だ!」


「よくありませんよ!」


 有田はぴしゃりとそう言って退けるが、圭一郎はちっとも気に病む素振りもない。そればかりか、ポケットからスマートフォンを取り出すと、歩きながらさっさと電話をかけ始めた。


「おお。久しい。日本についた。——そうか。お前も帰っているか?」


 有田は大きくため息を吐いてから、手にしていたタブレットを見つめる。


 ——日本に滞在できるのは二日。その間に……。


 そこまで考えてから、我に返る。この陽気に妻と会話をしている男が、自分の言う通りに動くとは思えない。案の定、彼は通話を終えると、有田を振り返って「有田。梅沢に行くぞ」と言った。


 ——やはりスケジュールはすべて変更。 


 予測していたこととはいえ、予測通りになると、なんとも言えない気持ちになるのは気のせいではない。有田はスマートフォンを持ち上げて車の手配を行った。


 ——仕方ない。だっておれは、人間として『関口圭一郎』に惚れているんだからな。






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