第6話 社会で成功していない奴のほうが、根はいい奴だ




 定時になった。課長である水野谷が腰を上げると、日勤組は帰る支度を始めるのだ。今日の遅番は吉田と尾形だ。尾形は水野谷が姿を消すと、途端に引き出しからせんべいの袋を取り出して食べ始める。


「もう、お菓子のカス、こっちに飛ばさないでくださいよ」


 隣の席の吉田が文句を言っても、彼には効果がない。「え? なんだって?」なんてとぼけた返事をするばかりだ。


 氏家と高田は帰宅組だ。彼らはそう残業をする立場ではない。いつも残るのは星野や蒼たち若手だ。


 星野の場合は、早く帰っても暇だからという理由があるらしいが、それは建前で、抱えている案件が多いのだ。


 星野という男は、仕事をスムーズに進めることにかけては天才的だ。水野谷からの信頼は厚く、なにかと業務を任されているのだった。そのおかげで、他の職員よりも倍は仕事をしているのではないかと蒼は思っている。


 もう少し手伝うことができるといいのだが……。


「あの、えっと。今日は……」


 そんな中、一人だけ先に帰るのは気が引けるものだ。なにせ一番の下っ端だ。しかし星野たちは「お疲れ」とあっさりと声を上げた。


「お前、調子悪そうだしな。さっさと帰れよ」


 星野はそう言いかけたが、はったとした。


「いや。おれ送ってくか?」


「え? 星野さん、どういう風の吹き回しなんですか」


 吉田が口を挟んだ。


 蒼は、星野が「関口に頼まれている」と、言っていたことを思い出す。もしかしたら、一人で帰らせないように、とでも言われているのかも知れないと思った。


「大丈夫です。今日は迎えに来てもらうんで」


 蒼がそう返答するや否や。関口が顔を出した。


「どーも」


「なんだよ。お前、久しぶりだな」


 尾形はおせんべいが口から零れるのも気にせずに、笑顔で手を振った。それを横目に吉田が顔をしかめている。


「尾形さん。また、そんなの食べていると夕飯食べられませんよ」


「いいじゃん。せんべいこれ、米でできているし。日本人の躰には、一番合うお菓子だよ」


 そんな屁理屈は聞いたこともない。蒼は大きくため息を吐く。もちろん、尾形の隣にいる吉田も同様の反応だった。


「そんなに暇でもないんですよ。明星みょうじょうのツアーの日程が詰まっていて」


「ガブリエルが来ているんだろう? どうだった?」


「どうって——」


 関口は星野に肩を竦めて見せた。


「そりゃ、マエストロですし。最高です。勉強にもなります」


「なんだよ~。反応、薄いじゃねーか。——あ、わかった! 父ちゃんと比べているんだろう?」


「ち、違います」


「ああ、ああ、そういうことね。『ぼくちんのお父さんのほうが、もっと素晴らしい演奏するもんね』っていじけてんだろう? この野郎」


 星野は関口の脇を肘で突く。彼は目元を真っ赤にして怒った。


「恥ずかしいこと言わないでくださいよ。失敬だな」


「おらおら。素直になりなさいよ」


「今日は、その話をしにきたんじゃないです! 蒼を迎えにきたんですよ」


 関口は咳払いをしてから蒼を見た。彼はスーツ姿だった。蒼はきょとんとしてしまう。彼がこういうかっちりとした恰好をするのは、そう見たことがないからだ。


「おいおい。そんな恰好しちゃって。どこに行くんだよ」


 へらへらと笑う星野に、関口は真面目な顔をして答える。


「蒼の親御さんにご挨拶です」


「へ!?」


「え!?」


 そこにいた四人は、ぽかんとした気の抜けた声を上げた。


「お、お前。まさか——」


 星野が青ざめて関口を見ている。蒼も膝がガクガクとした。


 ——挨拶ってなんだ?


「一緒に住んでいるんです。ちゃんとご挨拶しないと」


「い、一緒に住んでいるって!?」


 吉田が悲鳴を上げた。


「せ、関口!」


 普通だったら、男同士の友達が一軒家をシェアしているだなんて、ありきたりな話である。しかし、関口の性癖を聞いてからというもの、蒼は妙にそのことを意識してしまっているようだ。


 それに、吉田も——。そんなに悲鳴を上げなくてもいいのではないかと思ってしまう。


 もしかしたら、関口のことは、星音堂せいおんどう職員には周知済みということなのだろうか? まさか。そう思ったが、それはあながち的外れではなかったようだ。


「お、おおい。蒼。お前、大丈夫か? なになに? も、もしかして……」


 吉田は頬を赤くして、両手で抑え込んでいる。「もう、耐えられない」というリアクションだ。隣にいる尾形もせんべいを食べる手が止まり、唖然とした表情で蒼を見据えていた。


 ——こ、これって。


「いや。いいんだ。そういうことは、本人たちの自由だからな。そうだろう? みんな」


 星野が取り繕ったように言い放った言葉に、吉田と尾形は激しく同意という意味なのか、縦に首を振った。


「蒼。いいんだ。おれも、いいと思う。関口はいい奴だしね」


「そ、そうだぞ。蒼。人間はな、社会で成功していない奴のほうが、根はいい奴なんだぞ」


「尾形さん。それ、ひどくないですか? 僕は成功していてもいなくても、いい奴ですよ」


 関口は口を挟むが、尾形は無心にせんべいを口に運んでいる。それから、首を横に振って、泣きそうな表情で蒼を見据えた。


「あ、蒼。幸せになるんだぞ」


「え? あ、あの。ちょっと。なにか勘違いをしていませんか? おれはただ。お金のない関口から頼み込まれて、一緒に住んでいるだけですし。なにも——え? どういうことなんです?」


 自分一人、この場の意図が読み取れない。そうなってしまうと不安になるものだ。そもそも、昨日からずっと不安定である。心がざわついて、足の裏が地についていないような気持ちになった瞬間。 


 関口に腕を取られた。


「さて、時間、時間。じゃあ、すみませんね。後程、ちゃんとご報告しますから。遅番と残業、頑張ってくださいね」


 関口はそう軽く言い放つと、蒼の腕を取って大股で歩き出す。身長差で足の長さも違っている蒼は、半分引きずられるように星音堂を後にした。







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