第5話 私を傷つけるのをやめるか



 ごみ捨て当番になっている蒼は、ごみ袋を抱えて廊下を歩いていた。今日は定時に関口が来ることになっている。それまでの間に、自分の仕事を片付けておかなければならないのだ。


 平日の午後の利用客は比較的少ない。個人で利用している客が数名いる程度だ。


 蒼は無意識に、練習室の様子を確認しながら歩みを進めていった。——と。練習室六の扉が少し開いていて、中から女性の低めの歌声が漏れ聴こえてきた。


 蒼は足を止めた。その旋律は切ない。なにかの苦悩を歌っているのだろうか。日本語ではないので、意味がわからないものだが、その旋律は、傷ついている蒼の心にぐっとしみ込んできた。


 扉の前でじっと立ち止まっていると、歌声が止んで、中から中年の女性が顔を出した。


「あらやだ。ごめんなさい。声が漏れていましたか。すみません」


「あ、い、いえ。あの——」


 中には他に誰もいない。ということは、ピアノの伴奏を弾きながら、歌っていたのは彼女だということだろう。


「この扉、防音仕様で重たいでしょう? なんでしょうね。うまく閉まらないというか……」


「申し訳ありません。設備の問題だと思います。ちゃんと閉まるように修理しておきますね」


「あらあら。コツがあるんだと思いますよ。きちんと閉まる時もありますしね」


 ふくよかな中年の女性は、フリルのブラウスに、藤色のロングスカートをまとっている。笑うと、目じりにできる皺は、彼女がよく笑っているのではないかという印象を受けた。


「あの。素敵な歌ですね」


「あら? そう。イタリア歌曲なんですよ。日本語の意味はなかなか切ないものですけれども」


 蒼が目を瞬かせていると、女性は興味があると理解してくれたのだろう。蒼を練習室に招きいれた。


 個室の小さい練習室には、アップライトのピアノが設置されている。彼女は、そこに立てかけられている楽譜を蒼に差し出した。


「この曲は日本語訳で言うと『私を傷つけるのをやめるか』って言うんです」


「わ、私を傷つけるのを、やめるか……?」


「そうです。イタリアの作曲家スカルラッティの『ポンペイオ』というオペラの中で歌われるアリアですが、もう今は全曲を歌われることはなくて、この曲だけ一人歩きしているという感じかしら」


「オペラ……アリア?」


「あらやだ。職員さんだから、そういうの詳しいのかと思ったわ」


 彼女はころころと鈴が転がるような笑い声をあげる。声楽家というのは、普段の声色も上質だ。星野のところによく顔を出すUMユーエムアンサンブルの黒川という男もいい声をしている。張りがあるというか、響きがあるというか——。


「すみません」


「いいんですよ。オペラは声楽曲の劇ね。アリアっていうのは、その中で女性の歌手が一人で歌う曲のことを言うんです」


「なるほど……勉強になりました」


「まあまあ、可愛い職員さんですね」


 女性はもう一度笑うと、楽譜を指さした。


「この歌は、好きな人に対して、冷たくされ続けて、心痛めている女性の気持ちを歌っているんですよ。もう切なくて死んでしまいたい。私のことを見て欲しいのに——ってね」


O cessate  di  piagaemi.

(私を傷つけるのをやめるか)

o lasciatemi  morir.

(私を死なせてほしい)

Luci  ingrate-dispietate

(無慈悲で恩知らずの目は)

Piu del gelo,piu dei maemi

(氷よりもっと、大理石の彫刻よりももっと)

fredde e sorde ai miei martir.

(冷たくて、私の苦労に耳を傾けようとしない)


「あなたも誰かに傷つけられているのかしら?」


「え?」


「とってもこの歌詞に興味があるみたい。恋しているのかしら?」


「こ、恋……ですか」


 ——恋ってなんだ。関口のこと? 違うし。そして、なんで関口が出てくるんだよ……。おれが傷つけられているのは……。


 陽介——。


 彼は自分を苦しめるためにしているのではないということは、重々理解している。それは蒼のために、という気持ちが働いているということも知っているのだ。だから余計に、無碍にはできないのだが。


 ずっと自分に寄り添ってくれた陽介を疎ましく思う自分が嫌で嫌で仕方がないのだ。


「でも、この歌詞って変よね」


 不意に彼女が口を開いた。


「え?」


「だって、恋をするのもしないのも。自分の心しだいじゃない? それなのにこの歌は、つれない相手が悪いって歌っているのよ。もしかしたら、相手からしたら、青天の霹靂かも知れないじゃない。そんなこと言われても、ってなるわよねえ」


「それは……そうかも知れませんけど」


「気持ちってね、言葉にしないとわからないものですよ。自分の気持ちを人に押し付けてはいけません。自分が苦しくなるばかりですものね」


「言葉に……そう、ですね。おれだって、人の考えていることはわからないし」


「そうそう。大事な人とは、きちんとお話してみましょうね。たとえ分かり合えなくても、自分の気持ちは知っていてもらわないと。だって、どうでもいい人ではないんですから。あ、言っときますけれど、どうでもいい人とは、無理に分かり合おうなんて思わないことですよ。これは、中年おばちゃんとしてのアドバイス。時間は無限大ではありません。時間というものは大事な人に割くことをお勧めしますよ」

 

 彼女の笑みに、蒼は思わず首を縦にした。


 ——大切な人には、自分の気持ちをきちんと、伝えなくちゃいけないんだ……。


「自分自身が苦しいのは、自分が追い詰めているのかも知れないわね」


 蒼は女性と別れてから、ずっとそのことを考えていた。





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