第3話 ただの同居人



 蒼は必死だった。両手を握りしめて床に押し付けて、そして額を床にくっつけて丸まった格好のまま、声を絞り出した。


「おれは……、陽介が大好きだった……。だって、こんなおれでも大事にしてくれた。父さんや、直介が気がついてくれないことでも、陽介だけは気がついてくれた。察してくれた。だから、——おれは、陽介が好きだった! でもそれは兄弟として、で……。恋人とか、そういうんじゃないんだ。陽介は家族で。大事な兄なんだ」


 「うう」と声を押し殺して泣く蒼を引き寄せて、関口はポンポンと頭を軽く叩いた。


「よくできました」


「関口……」


「ちゃんと言わないと。ちゃんと伝えないと。蒼の好きな人なんでしょう? 自分の気持ちをちゃんと言わないと。ね? ——もしそれで、わかってくれないなら、仕方ないよ。蒼と陽介は分かり合えなかった。それだけのこと。だけど、蒼はそれを知るのが怖いんでしょう?」


 蒼にとったら、陽介は全てだ。きっと、ずっとそうだったのかも知れない。だからこそ、彼との決別は避けて通りたいのだろう。だがしかし、もう蒼は陽介の籠に収まるような雛鳥ではないのだ。


 蒼は無限に広がるこの空に飛び立とうとしている。それを陽介は恐れているのだろう。彼は必死なのだ。きっと今、必死に蒼をつなぎとめようとしているに違いないと思った。


 ——だからこそ。僕は陽介から蒼を救い出さなければならない。


「でも、いつかは明らかにしなくちゃいけないことでしょう? 蒼はいつまでもそうしていられない人間じゃない」


 蒼は関口のシャツでごしごしと目元を拭った。それからゆっくりと躰を起こす。気持ちの整理がついたのだろう。彼はまだまだ涙いっぱいの目を潤ませて、そのまま関口を下から見上げていた。


 ——や、やばいでしょう。可愛すぎる。


 一人、てんやわんやしている関口の心の内など知る由もない蒼は、彼のシャツを見て、「ふ」と笑みを見せた。


「ご、ごめん。シャツ——。ぐしょぐしょだ」


「別にいいけど」


「関口の言う通りだよね。本当……本当に、その通りだよね」


「蒼」


「陽介とのことは、ちゃんと区切りをつけないとって思ってた。母さんのこともあるのに、ここに戻ってきたのはそうなのかも知れない。関口になんか見透かされるの、なんだか不本意だな……」


 減らず口が出てくるということは、少し気持ちが平常運転に戻ってきている証拠だ。関口は肩を竦めた。


「あ~、やだやだ。せっかく東京から帰ってきたのにさ。シャツはぐしゃぐしゃだし。なあに? 夕飯ないわけ?」


「——夕飯はあるよ。母さんの肉じゃが」


「おお! いいじゃないの。うみさんの肉じゃが~。それは嬉しいかも」


「別に。おれのほうが美味しいの作れるし」


「嘘だ。この前いただいたら、海さんのほうが美味しかったし」


「う、うるさいね。本当に。なんだよ。本当に。関口なんて、関口なんて……本当」


「なあに?」


 顔を真っ赤にしている蒼に視線を向けると、彼は首を横に振った。


「いい。なんでもないし。関口は、男の人好きなんでしょう? ああ、危ない。近づかないもんね」


「なんだよ。自意識過剰なんじゃないの? 男なら誰でもいいなんて、偏見もいいところ。こっちにだって選ぶ権利あるんです。蒼だって女子だから誰でもいい訳じゃないじゃん。——あ、まだあのパイプオルガンのマシュマロ女、引きずってるんだ? やだな。蒼って未練がましいんだね。女々しいの」


「違うし! 彼女は違うし。もう、いい! 関口と話をしているとキリがないもの。おれ、ごはん食べたいし」


「それはこっちのセリフだよ。ほれほれ。稼いできたんだから。さっさと旦那さんを労いなさいよ」


 二人は廊下に出る。蒼は関口を押しのけてさっさと台所に歩いて行った。その後ろ姿はなんだか小さく見えて、心配でたまらない。


 ——心配だよ。蒼。


 こんな態度を取ることしかできない自分が歯がゆい。本当は抱きしめてあげたい。自分がその陽介という男と対峙したい。だが、蒼はそれを望まないことも知っている。自分は、蒼にとったら、という立場なのだから——。


 ——この気持ち。そろそろ限界なんだよ。蒼。もし僕が、気持ちを打ち明けたら、キミはどんな顔するのかな……。もうこうして一緒にいられなくなるのだろうか。


 蒼の背中を見つめながら、関口はそんな不安に駆られていた。







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