第10話 秘匿




 は、無我夢中だった——。


 大好きな人だったから。

 信じて疑わなかったから。


 だが、それも夢のような話だった。夢から覚めた後の自分は、惨めで背徳感で支配されて、彼と向き合うことが出来なくなってしまったのだ。


 この家に足を踏み入れると、眩暈めまいに振られて、当時の記憶が——、あの感触、感覚が鮮明にぶり返してくる。


「蒼?」


 妙に大きく聞こえた栄一郎の声にはったとして顔を上げると、そこには肉じゃがをタッパーに詰めて袋にいれたものを持っているうみが心配気な瞳の色で立っていた。


「蒼……どうしたの? 真っ青よ」


「ごめん。大丈夫。疲れているんだと思う。ごめん。ありがとうございます。これ。また来ます。必ず——」


 心配そうに顔を見合わせている両親を見ることができない。蒼は頭を下げると、その袋を受け取って、玄関から外に出た。


 ——早く、早く離れなくちゃ。こんなところに、いられるわけがないんだ……。


 自転車のロックを乱暴に解除し、蒼は足早に熊谷家の敷地から出る。医院脇の木戸から路地に出た瞬間。黒い人影と鉢合わせになった。


「蒼」


 ——だめ。絶対に。この人とは、もう会えないのに。


「——陽介」


 恐怖で震えている唇から洩れる名は、兄の名前だった。



***



 小さい公園だった。ブランコが一つ置いてあるだけの、住宅の隙間にそっと設置されている公園だ。そこに蒼は自転車を止め、屋根のある休憩場所で座っていた。隣に座っている陽介は蒼をしきりに見下ろしていた。


「蒼。どうして避けるんだよ」


「どうしてって……だって。そんな——。陽介は平気なの?」


「平気もなにも。今更どうして? むしろおれが聞きたい。どうしてなんだ? 蒼。あんなにおれたちは気持ちを通い合わせていたじゃないか。それなのに、おれが大学に行った途端に、連絡は取れないし。卒業したらまた戻って来るものだと思っていたのに」


 陽介は軽く息を吐くと声色を緩めた。


「蒼も色々とあるんだろうって思って様子を見ていたけど、一年だ。もう待てないよ。蒼。早く


「それは……違う」


 ——違うんだ。


 蒼は震える声で必死に思いついた単語を口にした。


「あの時のおれは、どうかしていたんだよ。だって、陽介は兄さんで、おれは弟で」


「でも血は繋がっていない」


「陽介は男で、おれも男で」


「蒼」


「……やっぱり、おかしいと思うんだ」


「そんなことはこの気持ちには無関係だ。——蒼。おれが嫌いになったの? あんなに支えてあげたのに? 蒼に不便がないように、おれはずっとキミに全てを捧げてきたはずだ。それを今更。おかしい? おかしくなんかないじゃない。だっておれたちは、


 陽介の口からその言葉が出されてしまうと、蒼の思考は真っ白になった。


 ——そうだ。自分たちは……。


 躰を重ねた。父親が、直介がいないあの夜に。若気の至りという言葉では片付けられない情事だった。


 母親もいない、他人ばかりの家で、虚無感ばかりに支配されていた自分を満たしてくれたのは陽介のその愛情だけだった。


 一人でぽつんとしている蒼に、なにかと声をかけ、そして「大丈夫。蒼は悪くない」と何度も囁いてくれたのは彼だ。


 母親が入院してしまったのは、自分の責任だと思っていた。


『蒼は悪くないよ。蒼のせいじゃない。でも周囲はそう思っていないんだ。蒼のことを本当に理解してあげられるのはおれしかいない。そう思わないかい? 蒼——』


 ——陽介はおれの全てを理解してくれていた。


 彼のためだったら、どんなことでもしてもいい——心からそう思っていたのだ。それが、あの夜。その気持ちは家族が互いに持つ愛情ではないと知った。陽介が蒼に抱いていた感情は、肉欲。恋情だったのだ。


 陽介に全てを委ねていた当時の自分は、その行為がなにを意味するのか、よく理解できなかった。いや、理解しようとしなかった。ただ、手を引かれるままに、陽介の言いつけ通りに彼との関係性を重ねたのだ。


 その出来事は、蒼を手枷のように絡め取り、もうどうにもならない状態になっていたのだ。


「陽介には、本当に感謝しているんだけど。でも——おれは、違うんだ。それはちょっと違くって……」


 蒼は必死に陽介を見つめる。自分の気持ちをいつも理解してくれる人だったから。今回も理解してくれるのではないかと期待したのだ。


 だがしかし。陽介は眉一つ動かすこともなく、蒼の腰に手を回すと、躰を引き寄せた。


「違くなんてないよ。蒼はおれが好きだ。好きなはずだ。そしておれは蒼が好きだ。お前はおれがずっと支えてきてやったじゃないか。今更逃げるの? 蒼はそんな薄情な人だったとは思わなかった」


「そ、それは違う……」


 ——そうじゃない。陽介には感謝しているんだ。だけど、だけど……。


「蒼はそんな人間じゃないよね? おれは知っている。蒼はそんな人間じゃないんだ。優しくて、そしておれだけを見てくれていて……」


 そっと触れてくる手のひらは、蒼の頬を撫でる。その感触は、過去の、あの瞬間に蒼を引きずり戻す。躰が強張って動けないことをいいことに、陽介はそのまま蒼の耳元に唇を寄せた。


「おれたちの関係を海さんや父さんには知られたくないだろう? ——蒼。海さん。きっと落胆するよね。——大丈夫。こんなこと。誰も言わないよ。安心して」


 悪魔の囁きのような陽介の声に眩暈めまいがした。息が上がる。


「家に戻っておいで。蒼。


 心臓の音がやけに大きく響いていた。眩暈めまいが大きくなって、まぶた痙攣けいれんしているのが自分でもわかるのに、それを止めることができなかった。


「今日はお帰り。また話をしよう」


 彼は口元に笑みを浮かべてから立ち去って行った。蒼は肉じゃがを抱えたまま、いつまでもそこに座り込んだまま、動くことができなかった。




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