第9話 魔物の棲む家



 その日の帰り道。

 蒼は定時で職場を後にしてから、実家に向かった。実家までは自転車で十五分もかからない。『うみに会ったらすぐに帰る』という言葉を何度も頭の中で繰り返し唱えながら、実家の熊谷医院に到着した。


 昨日、『診察中』になっていた札は、今日は『休診中』となっている。

 病院の入り口を横目に、西側にある小さい木戸を潜り、建物に沿って進んでいくと、中庭に出た。


 庭には、たくさんの植物が植えられていた。薔薇科の植物が多いのは、マトリョーシカその一、受付担当の梅宮女史の趣味だ。


 彼女は、女性不在の熊谷家の庭の手入れをいつもマメにしてくれていた人だ。長期入院している海が、いつ帰ってきてもいいようにとの配慮だと聞いている。


 海が入院する前、ここで生活をしたのは、ほんの一年にも満たない間だったが、彼女は従業員たちから慕われていたようだった。


「ただいま」


 玄関を開けると、父親が待ちわびていたかのように顔を出した。


「ごめんね。蒼。忙しいのに」


「いいえ。すみません。おれのほうこそ。母さんをみてもらいっぱなしで——」


「あらあら。そんな言い方。蒼も随分と偉くなったものですね」


 蒼が頭を下げていると、奥から海が顔を出した。彼女は顔色こそすぐれないものの、蒼を見つけると、にこっと、お日様のような笑顔を見せた。


「母さん。体調は?」


「ごめんね。蒼。なんだか大丈夫ですって何度も言っているのに、栄一郎さんが心配してくれて、あなたを呼んでしまったのよ」


「海は最近、不眠が続いていてね。蒼の顔も見ていないからかな? なんて思ったんだけど。どうだろうか。蒼。月に一度でもいいから、海のところに来てはもらえないだろうか」


「それは——」


 ——できればそうしたい。そうしたいけど。


 蒼の心中を察したのか、海は「栄一郎さん」と彼をたしなめた。


「蒼も忙しいんですよ。子どもでもあるまいし。そんな無茶なこと言わないであげてください」


「しかし」


「すみません」


 蒼は何度も頭を下げた。親孝行できない自分が不甲斐なく感じられたのだ。


「今日は、夕飯食べていくでしょう?」


「それは——」


 ——だって、今日は関口が帰ってくるし……。


 言葉が出ない。昔からそうだった。自分の気持ちを両親に伝えられないのだ。自分の気持ちを口にしてしまったら、変なことになるのではないかと思ってしまうのだ。


 海がいないせいだったのかも知れない。確かに栄一郎はいい父親だった。だけど、蒼の血縁ではない。蒼はどこかで遠慮している自分がいることに気が付いていたが、それを是正することはできなかったのだ。


けいくんと約束かい?」


 ふと栄一郎がそう言った。蒼が気持ちを言葉にできない分、栄一郎はそれをくみ取ってくれる。それも昔からだった。


「——関口。東京から帰ってくるんです。夕飯はこっちで食べたいって言っていたから……その」


 もごもごと口の中で言葉を濁していると、海が「まあまあ」と笑った。


「じゃあ、持っていく? 今日は肉じゃがですよ」


「いいの?」


「いいじゃないの。私の料理がお口に合うかしら?」


 彼女は嬉しそうに台所に姿を消した。それを見送って栄一郎は蒼に視線を戻す。


「ほら。蒼がくるとあんなに元気。心配かけたくないからね。蒼には話さなかったけれども、やっぱり僕たちだけでは寂しいんじゃないかな。僕も他人だし。陽介や直介もそうだ。海の本当の家族はキミだけだからね」


 蒼は海の気持ちが痛いくらいにわかる。


 自分もそうだったからだ。

 他人ばかりの家で育った。

 信頼できるのは一人だけ。

 ずっと彼だけを信頼してきた。

 心の全てを彼に明け渡して、蒼の世界は彼だけで回っていたのだ。——。






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