第7話 モーニングコール
よく眠れなかった。スズメの声が聞こえてきたので、布団から這い出した。
喉がガサガサとしていて、咳が出た。
季節の変わり目は、喘息には辛い時期でもあるうえに、この寝不足だ。
鏡台の上にある吸入薬を手に取り、少し吸い込むと、喉の息苦しさは、すぐに軽くなった。
朱色の鏡台掛けの隙間に映っている自分の姿は酷い有様だ。顔色も悪ければ、寝癖もひどい。
こんな様子で仕事に行けるのかと、自分自身が嫌になった。
——だめだ。こんなんじゃ。
廊下に出て、居間に顔を出す。もちろん、関口はいない。
『おはよう』
彼が朝食の準備をしている姿が、幻のように見える気がした。
——おれは、こんなところにいる資格なんてないんだ。
昨晩は最悪だった。陽介と会ったのは、今年の正月明けだっただろうか。体調を崩して、熊谷医院で、急遽、診てもらうことになった時以来だ。
あの時は、喘息を拗らせて、しばらくの間、入院をしていたのだが、タイミングよく彼は学会で出かけていて、ほとんど顔を合わせることなく過ごせたのだ。
母親が実家に戻って、それはそれは嬉しいことでもある。本当ならば、もう少し頻繁に顔を見に行って、親孝行をしなければならない。そうは思っていても、陽介がいると思うと、足が遠退くのだった。
それがついに。ずっと逃げ回ってきたことが、眼前まで迫ってきているのだ。
関口のいない家の中、視線を彷徨わせてもなんの助けにもならないことくらい知っている。これは自分自身で対峙しなくてはいけないことなのだから。
心のどこかで関口に頼ろうとしている自分が嫌になった。
一人で過ごすこの家は大きすぎる。自分は本当にここにいいのだろうかと思った。
じっと押し黙って、そこに立ち尽くしていると、居間のちゃぶ台の上に置いてあったスマートフォンが鳴った。はったとしてそれを掴み上げる。画面には、関口の名前が表示されていた。蒼は狼狽え、どうするか惑ったが、思い切って通話ボタンを押した。
「もしもし」
「蒼。おはよう。起きた? 寝坊しているんじゃないかって思って、電話した」
スマートフォンの向こう側から、関口の端切れのいい声が響いてい来る。ざわついて、暗い影で支配されかかっていた心が、ふと明るい気持ちになった。
「寝坊なんて、していないよ」
「そう? いつも寝坊じゃない。それに、大丈夫か? 声。喘息の発作でたの?」
声の調子だけで気がつくだなんて……と蒼は思った。
「そうだけど。大丈夫だよ。薬使ったから、大丈夫」
「病院に行ったほうがいいんじゃない? お父さんのところ」
実家の話になったことで、昨日のことを思い出し、蒼は押し黙った。
「蒼?」
「——う、ううん。大丈夫。だってまだ薬あるもの」
「そう? あのさ。僕、今日は夜九時くらいになると思うけど、ごはんは家で食べるからね」
——それって……。
「なあに? 夕飯作っておけってことなの?」
「そういうことでしょう? 疲れて帰るんだから。ね?」
——勝手なんだから。
心の中ではそう思っているのに、なんだか口元が緩んでしまう。蒼の頭の中には、夕飯をどうしようか? という考えしかない。先ほどまでの嫌な考えは薄らいでいった。
「いいよ。わかった。駅についたら連絡して」
「オッケー。じゃあ、蒼も仕事頑張りなよ」
「うん。関口もね」
「あ~、ねえ。いやね。……いいや。帰ったら聞いてもらう。じゃあね」
関口の通話は途切れる。蒼はそっとスマートフォンを握った。関口の声を耳にすると、心が弾む反面、余計にここにいてはいけないような気がするのだ。
蒼は鬱々とした気持ちを持て余しながら、支度を始めた。
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