第6話 秘密の診察室



 熊谷陽介は、父親である栄一郎の連れ子で、蒼よりも三つ年上だった。普段は県立医科大学附属病院に勤務しているのだが、こうして、父親が不在の時には熊谷医院を手伝っている。


 こんなことがいつか起こるのではないかと恐れていた。月曜日。陽介が医大の診療に行く日で自宅を空けることを知っていた。父親なら大丈夫。そう思っていたのだが。


「父さんは学会だ。今日は休診にするわけにもいかないって言われていたからね。医大のほうを休みにしてもらったんだよ」


 シャツの下から入り込んでくる聴診器の感触に、蒼はじっと押し黙って固まっていた。背中に当てられるそれは、妙に冷たくて、背筋がざわついた。


「今日は蒼に会えるなんて幸運だ。ねえ、蒼。うみさんが……母さんが帰ってきているのに、なぜ顔を出さない? みんな心配しているんだから」


「——あ、あの……それは。仕事が……」


 言葉が出てこなかった。喉になにかが詰まってしまっているようで、口はぱくぱくとできるのに、声が出てこないのだ。


 二人きりの診察室。カーテンで仕切られているその空間は、蒼にとったら息もつけないくらい窮屈で堪らない。早くここから出て行きたい。そう思っているのに、まるで椅子に張りつけられてしまったみたいだ。


「呼吸状態は悪くはないけど。ちょっと雑音が入るね。薬を変えてみる?」


「——あ……いや。……大丈夫だよ」


 蒼が怯えていることに気が付いているのか、いないのか。陽介は聴診器を外すと、思むろに背中を指先でなぞった。


「あ……」


 その感触は。


 ——知っている。この指先の熱を。おれは……知っている。


「ねえ。蒼。どうしておれのこと避ける? 嫌いになったの? ちょっとの間、離れただけじゃないか。蒼。……ねえ、蒼」


 その唇から自分の名前が囁かれる度に、記憶の波が断片的に蒼の脳裏を横切っていった。


 ——好きだよ。蒼。


 ——おれは……蒼が…………で、……だよ。


 肩甲骨から、脊柱を一つずつ確認するように触れてくる指先。それから、背中にある傷跡。


「ああ、これを見ると、あのこと思い出すね。蒼。海さんが蒼を傷つけたこと——」


 躰が雷に打たれたみたいにビリビリとした。


 ——違う。母さんは、おれのことを嫌いでやったんじゃないって、父さんから聞いたし……。


「蒼のせいで、海さんは辛い思いしてきたんだものね」


「ち、違う……って、違うって、聞いて……」


 涙が零れて、唇が震えた。言葉がうまく出てこない。頭ではわかっている。母親である海が自分にした仕打ちは、愛情故のことだと。


 ずっと自分の中に押し込めてきたこと。


 父親が誰なのか、蒼は知らない。蒼の母親である海は、実家と何事かがあったようで絶縁状態であったらしい。そんな中、蒼を一人で出産して育てていた海は、熊谷栄一郎と知り合い、結婚した。栄一郎もまた、妻に先立たれて息子二人を抱えて苦労している時期だったという。


 二人は仲睦まじい夫婦だったと、梅宮から聞いている。だがしかし、老舗の医院である。どこの馬の骨ともわからない女性が院長婦人の席に収まることを良しとしない親戚からの重圧は、計り知れないものだったらしい。海はあっという間に精神的に追い詰められて、最終的には蒼を道連れに無理心中を図った。


 その出来事は、蒼にとってはとてつもないストレスだった。去年、関口に背中を押されて、母親と再会をしたことで、その件についての折り合いがついたはずだった。


 なのに、陽介はそれをぶり返そうとするのか?


 蒼は弾かれたように、陽介を手を振り払った。


「陽介!」


 しかし、陽介は怯むことなく、振り返った蒼の腕を掴んで引き寄せた。


「蒼。おれは今でもお前が大事だ。どうして帰ってきてくれないんだ。おれは、ずっと子どもの頃から。お前と出会ってから、この身を捧げてきたつもりだ。このおれを、捨ててどこに羽ばたいていこうとしているんだい?」


「ち、違——」


 まるで蛇のようにその手は、蒼の躰を這いずり回る。そして首の後ろに回ったかと思うと、そのまま引き寄せられた。


 ああ。あの時、嗅いだ匂いだ。ずっとそうだ。熊谷家で生活していた時、この匂いは常に自分のすぐそばにあった。そして、この温もりも——。


 ——陽介……っ、やっぱりやめよう。こんなことは……っ。


 救いを求めて伸ばした手を掴んでくれるのは、陽介しかいない。彼に縋れば縋るほど、その関係が深みにはまっていくのも自覚していた。


「ここはおれたちの家だろう——蒼」


 手を握られて、腰を引かれて、自分はどこへ行くのだろうか。


 ——関口……。


 彼の名を心の中で呟いた瞬間。彼の顔がまざまざと思いだされた。


 ——こんなことしてちゃダメだ。


 蒼は、陽介の躰を押し返してから、椅子から離れた。


「ごめん。おれ」


「蒼?」


「あ、あの。だから……」


 そこまで言いかけると、看護師の藤田が顔を出した。彼女と梅宮を並べてみると、大きいマトリョーシカと小さいマトリョーシカに見える。


「兄弟での時間もいいんですけどね。まだ終わりませんか? 私たちも帰れないじゃないですかって、あれ? 喧嘩ですか?」


「いや。あの」


 陽介が口ごもっている様を横目に、蒼はシャツの前を押さえて廊下に出た。


「蒼さん? もう薬作っておきましたよ。前と同じだけど!」


「それでいいです! 藤田さん」


 後ろから聞こえる藤田の声に答え、受け付けにいた梅宮に頭を下げると、カウンターに載せられていた薬袋を乱暴に掴んで外に出た。


 もう頭の中がぐちゃぐちゃで、なにがなんだかわからなくなっていた。




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