第4話 お前に未来はない
「Bach. It's a good interpretation, but it's tragic. I don't think there's any good in being so pessimistic about life.
(バッハね。いい解釈だが——悲壮感漂う。そんなに人生悲観しても、いいことがないと思うけどね)」
入口のドアの枠にもたれていたショルティは、躰を起こすと控室に入ってきた。彼は流暢に英語を話す。
関口も幼い頃から英語を学んできた。海外で暮らすことを想定した両親の意向だった。そのおかげで、そう苦労をすることはなかった。現に今も、ショルティとの会話はスムーズにこなせた。
「It's not just about being optimistic. Or so I think.
(楽観すればいいというものでもない。と、僕は思うけど)」
関口の回答に、彼は肩を竦める。
「This is why Japan people. Do you say wabi-sabi?(これだから日本人は。ワビサビって言うの?)」
「No. It's completely different. And it's bad, but I don't think Japan people like wabi-sabi these days.
(いや。全然違うね。それに悪いけど、今時の日本人はワビサビなんてものは好まないと思うよ)」
「What! Is that right? ——No, no. It shouldn't be like that. Because Sekiguchi always says, "Japan people are wabi-sabi! I love wabi-sabi! I love kimonos! He said.
(え! そうなのか。——いやいや。そんなはずはないぞ。だって、いつもセキグチが、”日本人はワビサビ! ワビサビ大好き! キモノ大好き!” って言っていたぞ)」
——セキグチだと?
関口は自分の父親の顔を思い出し、「ち」と舌打ちをした。
「あいつ……また適当なことを……」
「What? What do you mean? I don't understand Japanese. If you have something to say, say it! Do you know Sekiguchi?
(なに? どういうこと? 日本語はわからないぞ。言いたいことがあるなら、ちゃんと言え! キミはセキグチを知っているのか?)」
「I don't know.
(知らない。おれは知らない)」
関口は首を横に振ると、楽器を携えて控室を出ようとする。しかし、ショルティはそこから退ける気はないらしい。じっと姿勢を変えることなく、関口を見据えていた。
「Your performance is interesting. What's the name? What do you say?
(キミの演奏は興味深いな。名前は? なんという?)」
「——Sounds good, right? I'm a lot of other people.
(いいだろう? なんだって。おれなんて、その他大勢だ)」
「There is no such way to say it. You're sitting in the second row from the front of the first violin, right? I know.
(そんな言い方はない。第一ヴァイオリンの前から二列目に座っているだろう? おれは知っている)」
「なんてやつだ!」と関口は思った。この膨大な楽団員の顔を覚えているというのか。それとも、自分が悪目立ちでもしていたのだろうか?
関口は珍しく動揺していた。ショルティという自分と同年代の、それでいて、自分よりも何歩も先を歩いている男に出会ったからだろうか。
——変な奴に、つきまとわれるのはごめんだ。
関口は心の中でそう呟いた。確かに才能あふれる男なのかも知れないが、自分はこの男と懇意にするつもりはないのだった。
「Why are you in such an island country? Why do you play like this? Why in such a place......?
(なぜ、キミはこんな島国にいる? どうして、こんな演奏をするのに。なぜ、こんなところで……?)」
「Leave me alone.
(放っておいてくれ)」
関口はショルティの腕を振り払って控室を飛び出した。
「Hey! You!(おい! キミ!)」
——嫉妬。嫉妬なのだろうか。きっと……。
心が惑っている。そして心が焦っているのだ。こんなことは、よくないことだと自分に言い聞かせるが、これは事実だ。現実なのだ。
後ろからショルティがしつこく声をかけてくるが、そんなことはお構いなしに、関口は廊下を歩いてステージに戻っていった。
***
休憩を挟んでの
明日は午前中にマエストロの指導を経て、午後からが本番となる。すっかりショルティの虜になっている
関口も楽器を片付けて、今晩は実家に泊まる予定だった。しかし、隣にいた宮内が夕飯でも食べようと誘ってきた。
「たまにはいいじゃん。梅沢での生活の様子でも聞かせろよ。好きな子の話も聞きたいしさ」
「お前に話すことなんてないし」
「またまた。おれたち友達じゃん?」
「友達なら、星野一郎コンクールもわざとエントリーしたんだろう? もう、嫌い! 宮内なんて」
「いいじゃん~、別に。お前が出るならおれも出たいじゃん?」
がははと笑っている彼を横目に、ため息を吐く。
今日、蒼は日勤だったはずだ。夜、電話でも入れてみようか——と、そんなことを思っている。宮内に付き合っている場合ではない。どう断ろうかと思案していると、ショルティが関口の元にやってきた。
「Still for something?
(まだなんか用?)」
関口がぶっきらぼうに英語で尋ねると、彼はポケットから何やら四角いものを取り出した。
「え?」
はったとして、彼の手のひらに収まっているスマートフォンに視線を落とす。それは自分のものであると認識した。
「I forgot it in the waiting room. Kei Sekiguchi.
(控室に忘れていたぞ。関口
「Why did you give me my name......
(なんでおれの名前を……っ)」
彼は「ふふ」と軽く笑うと『ステージマネジャーに聞いたら教えてくれただけだ』と言った。
「I didn't know he was Keiichiro's son. I see. It's similar. I thought it looked like someone. Not all Japan people are "sekiguchi...... I was wondering, but it makes sense. ——Hey, Kei. I'll say it again. Why not come to the world? How long are you going to stay like this?
(圭一郎の息子だったとはね。なるほど。似ているわけだ。誰かに似ていると思った。日本人はみんな”セキグチ”なわけないしな……って疑問に思っていたが、納得だ。——おい、蛍。もう一度言う。なぜ世界に来ない? いつまでこんな場所にいるつもりだ)」
——あの
「——It's noisy. I just want to do what I like
(うるさいな。僕の好きにしたいだけだ)」
——嘘ばっかり。
関口は自分の気持ちを直視しないように蓋をして、声を押し殺した。しかし、ショルティはそれを許さないという瞳の色をしている。まっすぐにただ関口を見据えてくるのだ。
「What....... Don't let me down. Kei.
(なんと……。失望させるな。蛍)」
「It doesn't matter to me whether you're disappointed or delighted, right? It's noisy. Don't interfere in other people's lives! This sobriety bastard!
(お前が失望しようと、歓喜しようと、そんなことは僕には無関係だろう? いちいちうるさいんだ。人の人生に口だしをしてくるな! このお節介野郎!)」
珍しく声を荒上げた関口を見兼ねたのか。宮内が間に入る。
「おい。お前。落ち着けよ」
「どいて。宮内。これは僕とこいつの問題だ」
ショルティは日本語がほとんどわからない様子だった。二人のやり取りに、肩を竦めて見せる。それから関口にスマートフォンを手渡した。
「There is no future for those who don't take on any challenges——。 It was useless to talk about it. Your loved ones are going to cry.
(何事もチャレンジしない奴に未来はない——。話すだけ無駄だったな。大事な人が泣くぞ)」
彼はそう言い残すと、姿を消した。控室に残っていたのが、関口と宮内だけだったのは幸いだ。他の楽団員に見られていたら、大騒ぎになるところだと関口は思った。
「おいおい。ショルとどうしたんだよ?」
「知らないよ。あっちが勝手に突っかかって来るんだ。
「でも——」
「気分が悪い。宮内。食事はまた今度」
関口は楽器を背負うと、さっさと控室を後にした。
ポケットに押し込んだスマートフォンが妙に存在感を増す。
——まさか。見られた? あいつに? 気分が悪いな。なんて日だ。蒼に会いたい。声が聞きたい。蒼に……。
関口は長い廊下を歩き、それから裏口から屋外に出た。もう夜の闇がすぐそこに迫っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます