第3話 僕の好きな人



 チャイコフスキーの交響曲第五番。演奏時間約四十二分。1888年に、チャイコフスキー自らが初演した曲でもある。

 第一楽章はアンダンテe mollエーモール(ホ短調)。クラリネットで始まる旋律は重々しい。まるで聴いている者の心を取り込んでしまうかのような、不吉な雰囲気が漂う。この旋律はポーランドの民謡から引用しているようだが、チャイコフスキーらしさを醸し出すには十分すぎる旋律だ。


 ——ホール内に充満する、その重苦しい雰囲気はなんだ? あの男が、作り出す音楽とは到底思えない。


 軽い小さな旋律を、こんなにも悲壮感漂わせる表現に変えて、引き出させるとは——。


 指揮者とは、オーケストラの中では絶対君主である。指揮者の腕一つで、オーケストラの音色は何色にでも変わるものだということを、関口は改めて、身をもって知った。


「Clarinet. That's ok. Get more intoxicated with yourself. Yes, that's a good feeling.

(クラリネット。いいですよ。もっと自分に酔いしれて。そう——いい感じですね)」


 ショルティのその笑顔に、第一クラリネットの女性は頬を染めた。彼に褒められた楽団員たちは、老若男女問わずに、嬉しそうに、はにかむ。ショルという男は、元来の人たらしとでもいうのだろうか。


 人を惹きつける力——。関口は、まるで父親を見ているようで、心が落ち着かなくなった。


 ——おれにはない。あんなキャラじゃない。


「So let's take a break, shall we?

(それでは少し休憩にしましょうか)」


 ショルティの声に、楽団員たちは、まるで夢から覚めたかの如く、はっと我に返った。関口の隣にいた宮内も彼の魔力にかかっていたようだ。弾かれたように顔を上げると、「は~」と感嘆の声を上げた。


「いや。驚いた。ただ者じゃないね。ガブリエルじゃなくちゃ嫌だ~なんて文句を言っていた百間もんまさんたちまで釘付けじゃないか。——まいったな。あの坊や。デビューするんだろう? さすがだねえ」


「……そうだな」


 ぶっきらぼうに返してやると、彼は「おいおい」と関口の脇腹を肘で突いてきた。


「嫉妬かよ? おれもデビューしたいってか?」


「うるさいね」


 関口はむっとして、腰を上げた。


「ちょっと控室へ行ってくる」


「へいへい」


 ——おもしろくないね。


 関口は気持ちを必死に押し隠しながら、ステージ袖の裏口から廊下に出た。楽器の調整をしたり、水分補給をしたりして休憩をしている楽団員が幾人も見受けられる。


「ショルってかっこいいわよね。今回がデビュー公演だったらよかったのに」


 女性団員たちは、すっかり彼に夢中の様子だった。別に自分が女性たちに好かれたいと思っているのではない。純粋に周囲の注目を集め、評価されているということが面白くないのだ。なにせ自分は——自分は女性には興味がないのだから。


 いつの頃からだったのだろうか。女性と親密になりたいという気持ちが、自分にないことに気が付いたのは……。思春期だったろうか。周囲の友人たちが女性の話をしていることについて、大して興味がわかなかった。自分は音楽に興味があるせいだ。そう思っていたのだが——大学に進学する頃、やっと気がついたのだ。


 ——そうだ。おれは女性には興味がないんだ。あるとしたら……。


 それは音楽だけ。そしてもう一つ。音楽と同じくらいに興味がある、そして大事なもの。


 ——あおはどうしているだろうか。


 控室にいる団員など一人もいない。ぽつんと取り残されたような感覚に陥りながらも、こうして静かに彼のことを回想できるこの環境は落ち着いた。


 関口には、シェアハウスをしている相手がいる。そう。星音堂せいおんどう職員の熊谷蒼だ。


 彼と出会ったのは一年も前になる。ドイツからの留学を終え帰国した。東京を中心に活動をするのが当然という周囲の思惑に反し、関口は祖父の住んでいた家のあった、田舎である梅沢市に引っ越した。


 これから音楽家としてやっていこうというときに、田舎に引っ込むのは意味もないっことだった。しかし関口にとったら、梅沢市は特別な場所でもあるのだった。


 梅沢市には、彼を育ててくれた、大好きな音楽ホールがある。そして、大好きな祖父母が住んでいた場所でもあった。

 祖父母は、関口がドイツに行っている間に死んでしまった。葬儀には参列したが、結局は死に目にも会えなかった。あんなに、自分がヴァイオリニストとして大成することを夢見て、応援してくれていた二人だったから、関口にとっては衝撃的な出来事だったのだ。


 梅沢市に戻り、そこで出会ったのが蒼である。自分の大好きな星音堂に配属されていた蒼を見て、初めは嫉妬した。むろん、自分がその場所にいられるはずもないことなのだが——。関口が信頼し、大好きである職員たちと懇意にしている蒼を見ていると、イラついたのだった。まるで居場所を取られたかの如く。


 ——それなのに。


 今はどうだ。自分がここにあるのは蒼のおかげだと思うほどになっている。彼との出会いは、関口を正しい道に引き戻し、そして前を向いて歩いていけるよう背中を押してくれたのだから。


 ——おれは男とか、女とかどうでもいいんだ。おれが好きなのは


 蒼のことを思い出しヴァイオリンを構える。関口が一歩を踏み出すことができるきっかけとなったコンクールで弾いたバッハ。その冒頭部分を軽く弾く。建物内では、あちこちで団員たちが音出しをしたり、練習をしたりしている。自分の音など、そんな中にかき消されてしまうものだ——。


 そう思っていたのに。ふと、耳をつく拍手の音に、はったとして顔を上げた。

 控室の入り口に立っていたのは、先ほどまで指揮台に立ち、団員たちのまなざしをくぎ付けにしていた男——ショルティだった。









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