第2話 お留守番



「ねー、ねー、あお。ちゃん。ごはん食べに行こーよー」


 カウンターのところに居座っている女性二人を眺めて、熊谷蒼は苦笑した。


「もう、いい加減にあきらめてくださいよ。そんなにおれのこと構うの好きなんですか?」


「えー。そんな自意識過剰な言葉が、蒼ちゃんから発せられるなんて——」


「ショック~」


 梅沢市民オーケストラのメンバーである女性——たちばな秋元あきもとが顔を見合わせて文句を言った。


 ——そんなこと言われたって! しつこく誘ってくるのは二人でしょう? もう!


 蒼は頬を膨らませて彼女たちを見据えていた。そこに、ラウンドから帰ってきた、蒼の先輩職員である星野ほしのが「おいおい」と口を挟んだ。


「お姉ちゃんたちも飽きないねえ。関口がいないからってつまらないんだろう?」


「だって~。星野さん。せっかく王子様みたいな主席奏者コンマスが来たと思ったのに。関口くん、明星みょうじょうオケの正式団員になっちゃったでしょう? 練習、なかなか来てくれなくて寂しいもんね」


「本当にそうよ。残念。主席奏者コンマス、交代するって。柴田先生が言っていたもん。あ~あ。蒼ちゃんからかわないとやっていけないじゃない」


 最初の頃は純粋に蒼にアプローチをかけていた二人だが、関口の登場に、すっかり鞍替えをしていたのだ。正直、ここのところの蒼の扱いは、おもちゃ程度の話だ。だから、嫌だと思っているところなのに。


 ——それに。関口がいなくて寂しいのはおれもだし。


「こら。二人。事務員さんの邪魔しちゃダメだよ。練習始まるんだから」


 橘と秋元の先輩らしき女性が顔を出す。二人は不満そうだったが、そのまま連行されていった。それを見送った蒼はため息を吐いた。


「おいおい。お前まで寂しいのかよ。関口がいなくて」


「べ、別に。寂しくなんてありませんよ」


 蒼は慌てて表情を引き締めてから、自分の席に戻った。


 熊谷蒼は梅沢市役所職員として二年目の新人である。彼が配属されたのは、市役所が管轄している音楽ホールであった。


 その名も——星音堂せいおんどう

 星音堂は、昭和六十二年に建てられ、県内で唯一パイプオルガンを設置していることと、ホールの残響時間の長さが、国内ホールの中でも、五本の指に入るほど長いという特徴を持ち合わせているため、室内楽や、声楽などの演奏に適していた。利用する側の好みが分かれが、比較的、稼働率の高い田舎のホールでもあった。


 星音堂の職員は総勢七名。堂長兼課長である水野谷みずのやを筆頭に、年齢順に、氏家うじいえ高田たかた、星野、尾形おがた吉田よしだ、蒼——という順番になる。

 

 営業時間である八時三十分から、夜の九時までをカバーするため、職員たちは日勤と遅番に分かれて勤務をこなしていた。

 遅番を担わない水野谷を除外した六名での変則勤務は、地方公務員としては負担が大きいものでもある。


 本日の遅番は蒼と星野だった。施設の見回りラウンドから帰ってきた星野は、自分の席には座らずに、応接セットであるソファに腰を下ろした。勤務時間であるというのに、彼はすっかりリラックスタイムだ。


「関口はいつ帰ってくるんだ?」


「えっと。今回は、なんだっけな。が、ガブ? ガブリンチョとかって有名な指揮者が来日するらしくって」


「ガブリエルだろう?」


「あ、そ、それです」


 新聞を開いた星野は「がはは」と笑う。


「いやさ。本当に。お前って……バカ?」


「し、失礼ですね! 星野さん。おれだって、それくらい知ってます」


「知らねえくせによお」


 くつくつといつまでも笑っている星野が憎たらしい。蒼はむーっとした顔を見せてるが、彼はまったくもって相手にしない様子で、続けた。


「ガブリエルの指揮で演奏できるなんてよ。羨ましいぜ。関口あいつの父親と肩を並べるくらいの名指揮者だぜ? 今回は、チャイコフスキーだっけか? おれも聞きてえなあ」


「チャ、チャイコスキー?」


「チャイコスキー」


「チャイコスキー」


「フが抜けてんぞ」


「フ? フ? ど、どこですか」


「あ~あ。本当にバカ」


 蒼は「チャイコスキー? フ?」と何度もつぶやいたが、到底言えそうになかった。


「あの、すみません。ちょっと空調の調子がおかしいんです」


 そこに利用客の女性が顔を出した。蒼が席を立とうとすると、「お前じゃわからねーよ」と言って、星野が席を立った。


「どれどれ?」


「もう星野さんってば……女性のお客さんの時ばっかり、いい顔するんだから……」


 蒼はため息を吐きながら、途中になっている企画書の画面を眺めた。そして、ふと同居人のことを思い出した。


 ——関口。


 関口けい。蒼とは年齢が同じ二十三歳。

 彼は子どもの頃から、この星音堂に出入りしているヴァイオリニストだ。蒼が職員としてここに配属になって出会った。

 

 ——関口は、おれの人生に光を与えてくれた。


 顔を合わせれば、憎まれ口ばかり。だが蒼は、関口のおかげで人生が良い方に動き出していると感じていた。


 関口が蒼の背中を押してくれたから。蒼は大いなる一歩を踏み出して、今ここにいる。蒼も彼の為に何かしたいと思った。ただそれが、本当に彼の為になったのかと言うと、それは疑問だった。

 

 出会った頃の関口は、幼少時代に負った心の傷のおかげで、コンクールに対しての苦手意識が募り、まだまだ芽も出ていない駆け出しのヴァイオリニストだった。


 正直、蒼には音楽の世界はわからない。だが彼のヴァイオリンの音が、なにを伝えようしているのか、それはよく理解できた。


 蒼と関口は出会い、そして色々なことを経験した。その結果、彼はは星音堂で開催されたコンクールで、見事に最優秀賞を勝ち取ったのだった。


 だがしかし。田舎の小さなコンテストである。関口の功績は、音楽雑誌の片隅に取り上げられた程度の話だった。


 ——関口は世界に羽ばたきたいんだ。


 世の中はそう甘くはないものだ。特に音楽の世界は、蒼が思っている以上に厳しいのだろう。たった一度、小さなコンクールで優勝したからと言って、すぐにCDを出したり、売れっ子になるはずもないのだ。


 コンクール優勝後も関口は、地道に東京と梅沢市を行き来し、オーケストラの楽団員として、時には子どもたちにヴァイオリンを教える講師として活動をしていた。


 しかし、明星オーケストラの正式楽団員になってからというもの、彼はそちらに時間を取られることが増えていた。東京にいる時間が長くなればなるほど、梅沢にいる時間は相対的に減る。つまりは、蒼が関口と顔を合わせる時間も減っているということなのだ。


「別に寂しいわけじゃないけど……。寂しくなんてないけど……」


 ぶつぶつとそんなことをつぶやいてから、蒼は頭を振った。卓上カレンダーに視線が止まった。


 関口が帰ってくるまで、後二日——。心のどこかで待ち遠しく思っている自分に、蒼は気がついていないふりをしていた。






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