第1話 王子、登場する。


 ストリングスの音が響き合っていた。一八〇度の視界に広がる客席は、がらんとしている。しかし、それとは対照的に、ステージ上には椅子が並べられて、そこにラフな服装をしている楽団員たちが腰を下ろして楽器の調整を行っていた。


 関口けいにとったら、見慣れた光景だ。ステージを構成するヒノキの床材は、音を適度に響かせる。ピカピカに磨かれた床の表面には、橙色だいだいいろの照明が明るく反射して見えた。


 その光に照らされていると、額に汗が滲んだ。空調が効いていても意味がないと関口は思った。


 ヴァイオリンの糸巻ペグを調整しながら、音合わせをしていると、隣に座っている友人の宮内みやうちが「おい」と声をかけてきた。


梅沢うめざわでの生活はどうなんだよ」


 宮内は、鳶色とびいろに染めた長めの前髪を耳にかけ、色白な顔色をしている。音楽家としては、少し無神経そうなその瞳は、関口の顔をまじまじと覗き込んでいた。


「どう、って?」


「どうって……。おい、蛍。なんで東京こっちに住まないんだよ。正式に明星みょうじょうオケのメンバーになったんだ。こっちにいる時間のほうが長いんだぞ。なんでわざわざ田舎になんて住むんだ。面倒だろう?」


「面倒って。……別にいいだろう。僕は梅沢が好きなんだから」


「へえ。そんな言い訳がおれに通用すると思ってるのか? 大学時代からの親友にさ」


 関口は大きくため息を吐いてから、ヴァイオリンを肩から外した。


「お前さ。リハーサル前だからって無駄話はやめたほうがいいよ。少しは黙れ。怒られるぞ」


「いいじゃん。そうやって話を変えるって……あ、わかった。女だな。いや——お前の場合は男だ!」


 宮内は「へへ」と笑った。


「お前ねえ」


「お! 否定しないんだ。へえ。誰? どんな子なの。かわいい? なに。もう付き合っているとか?」


「つ、付き合ってなんて……」


 関口は顔が熱くなるような気がした。しかし二人の会話はそこで中断される。明星オーケストラ首席奏者コンサートマスター貝塚かいづかが振り向いて二人を嗜めたからだ。


「おいおい。無駄口叩くなよ。お前たち。今日は、なんて言ったって——」


 五十代の貝塚は恰幅がよく、威厳ある声は張りがあった。この明星オケを引っ張る主席奏者コンサートマスター。関口の憧れのヴァイオリニストでもある。


 しかし、いつもは冗談を言って、自分たちのような若手の緊張を和らげてくれる貝塚だが、今日は緊張の面持ちを隠しきれていない。


 それもそのはずだ。今日の練習は——世界で活躍している指揮者マエストロガブリエル・クレマンの日本公演のプログラムだからだ。


 ピリピリとした雰囲気は貝塚だけではない。他の楽器奏者たちも、心なしか表情が強張っていたのだ。


「みなさん。マエストロのご到着です」


 ステージマネジャーである高峰たかみねの声が響いたかと思うと、長身の大柄な男性が颯爽と姿を現した。


 薄い白髪に混じる黒柿色の髪。濃紺色のネクタイに、空色鼠のスーツ。どこからどう見ても、洗礼された紳士である。


「Hello everyone. How do you do. Thank you very much for your cooperation in my performance in Japan. It's an honor. Let's make it a great performance.

(みなさん、こんにちは。初めまして。今回は私の日本公演への協力、ありがとうございます。光栄です。ぜひ、素晴らしい演奏にしていきましょう)」


 ホール中に響くガブリエルの声は、その場の支配者たる威厳を感じた。そこにいた誰もが背筋が伸びる思いではないだろうか。先程までの雑多とした雰囲気は鳴りを潜め、誰しもが彼を注視していたのだ。


 ——これが世界で活躍するマエストロ。


 自分の父親はどうなのだろうかと、関口は父親に思いをはせた。

 ガブリエルの名は、父親の口からよく聞いた。きっと懇意しているに違いないと思ったのだ。


 すると、ステージマネジャーの高峰が口を挟んだ。


「今回のツアーには、マエストロの一番弟子であるクラウス・ショルティが同行しています。本日の練習はクラウスが行いますのでよろしくお願いいたします」


「マエストロが振るんじゃないのかよ」


 楽団員たちは口々に囁いた。もちろん、関口も同感だった。しかし貝塚は、表情を変えることなく、鋭い声色で言った。


「強行スケジュールでの来日だ。マエストロはマスコミ対応で手いっぱいだからな」


「でも」


 貝塚の隣に座っていた、次席奏者フォアシュピーラー百間もんまは不満気な声を上げたが「致し方ないだろう。我慢しろ」という、貝塚の静かなる一喝で、黙り込んだ。主席奏者コンサートマスターには逆らえない。


 そんな楽団員たちの動揺を理解したのか、ガブリエルは眉をハの字にして「ごめんなさい」と日本語で何度も謝罪の言葉を述べた。


「It's been a long time since I've been to Japan, and I couldn't adjust my schedule. Scholl is an excellent conductor who will soon make his debut in Japan. I don't think it will discourage you. ——Solti.

(日本に来るのは久しぶりで、スケジュールの調整がつきませんでした。ショルは近々、日本でのデビューを控えている優秀な指揮者です。みなさんを落胆させることはないと思いますよ。——ショル)」


 ガブリエルが、促すようにステージ袖に手を差し伸べると、長身の男が姿を現した。

 金髪碧眼。少女漫画で言う、いわゆる王子様的な容姿の男だった。


 ——デビュー寸前だと?


 関口は、嫉妬にも似た気持ちを覚える。年齢は自分とそう大差ないだろう。それなのに、巨匠と呼ばれるマエストロ・ガブリエルについて、こうして世界中を回っているのだ。

 

 自分は——。

 日本のオーケストラの、しかも第一ヴァイオリンの二番目に座っているのだ——。

 自分で選んだ道とはいえ、こうして見せつけられてしまうと、心が痛んだ。


「Ladies and gentlemen of the Meisei Orchestra. How do you do. My name is Solti Kraus. Thank you very much.

(明星オーケストラのみなさん。初めまして。ショルティ・クラウスです。どうぞよろしくお願いします)」


 彼はさっそく貝塚に手を差し出した。貝塚も腰を上げて、それに応対する。きらりと光る笑顔に、女性団員たちはのぼせているようだった。


 ——くそ。おもしろくないツアーだ。


 関口は小さく舌打ちをして、視線を逸らした。



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