クルミ
砂鳥はと子
第1話 クルミ
これはわたしがまだ光の橋の向こう側にいた時の話。
公園に捨てられていたわたしを拾ったのはある小さな家に住む奥さんでした。
旦那さんとも仲がよくて、いつもわたしを大事にしてくれていました。
だけど月日がたち、奥さんと旦那さんはいつも口喧嘩するようになりました。時には物が飛び交い、私はソファの後ろで二人が静かになるまでじっとしていました。
そしてそろそろ冬が訪れようとする頃、奥さんは出て行ってそれきり帰って来なくなりました。
わたしはご飯ももらえず、水ももらえず、日に日に体に力が入らなくなって、すっかり弱った時のことでした。
「俺は元々、猫は嫌いだったんだ」
そう言って旦那さんはわたしを家の外に放り出したのです。
ぴしゃりと窓が閉められ、もうわたしを迎えてくれることはなくなりました。
わたしはふらふらした体で近くの公園でうずくまりました。
もう動けなくて、きっと死んでしまうのだろうと悟りました。
冷たい風を凌ぐために何日も生け垣に隠れていましたが、子供たちに見つかって追い回され、わたしはほうほうのていで走って逃げました。
だけど通りに出た瞬間、わたしは力突きました。向こうから空色の車が走って来ます。
体の何倍もある車に轢かれたら、きっとぺしゃんこです。
でも帰るお家も家族もなくなって、わたしはそれでもいいと思いました。
けれど、車はわたしの前で停車して、中からお姉さんが慌てて飛び出してきました。
そのお姉さんはわたしを抱き上げると、車に乗せたのです。
それからわたしはお姉さんの家の子になりました。
ユリ。それがお姉さんの名前です。
お姉さんはわたしのことをクルミと呼びます。
わたしには別の名前があったけれど、もうその名前で呼んでくれる奥さんも旦那さんもいません。
だからわたしはその日からクルミになったのです。
ユリはいつも優しくて、わたしを大事に大事にかわいがってくれました。
「クルミは良い子だね」
そう言って大切な宝物に触れるように、撫でてくれます。
特にユリはわたしを膝にのっけるのが好きだったので、わたしもそこにいることが大好きになりました。
ユリにそっと背中を撫でられると、とっても安心できて、わたしはいつもうとうとしてしまうのです。
温かいお家に、おいしいご飯もあります。
わたしはユリのおかげでぬくぬくと過ごすことができたのです。
そうしてわたしとユリの生活は二年ほど続きました。
それはそれはとても幸せで楽しい生活だったのです。
だけど、夏がようやく去って、涼しい秋風が吹く頃のことです。
ユリはいつまでたってもリビングに現れません。いつもなら「クルミおはよう」と言って来てくれるのに。
ちっとも来ないので、わたしはユリの部屋に行きました。ユリはわたしがいつでも入れるように扉を開けておいてくれるのです。
ユリはいつも寝ているふかふかの寝台の横に倒れていました。
近くに寄って鳴いても、舐めても起きないのです。
ユリ、ユリ、ユリ!
わたしはとっても嫌な予感がしました。
もう永遠にユリがわたしを抱っこして撫でてくれない。そんな悲しい予感です。
ユリを助けないといけないと思いました。
けれどユリよりずっとずっと小さなわたしは何もできません。
ユリ、ユリ、ユリ!
いっぱい大きな声で鳴きました。
けれどユリは起きないのです。
わたしはどうしていいか分からず、ただただ鳴いていました。
その時です。
目の前にぽうっと柔らかな光が現れました。わたしは何だか怖くて身動きできません。
その光はわたしの心に語りかけてきました。
「猫のお嬢さん、その人を助けたいかい?」
「助けたいです」
何なのか分からないけれど、今はユリを助けなければいけません。
「ユリを助けてください」
そうお願いしました。
光はわたしたちに近づくとこう言いました。
「その変わり、お嬢さんの寿命がうんと短くなってしまうけど、いいかい?」
「ユリが助かるならわたしは死んでもいいです」
もう死んでしまいそうなわたしを助けてくれたユリ。どうしてそのままユリを見捨てることができるのでしょう。
無力なわたしはその光にお願いしました。
「ユリを助けて」
「分かった。お嬢さんの寿命と引き換えにその娘さんを助けよう」
光は部屋いっぱいに広がって、あたりは真っ白になりました。
気づくと、誰かが部屋に入ってきました。
「ユリ!」
声をあげたのは、以前会ったことがあるユリのお兄さんでした。
それから白い服を来た男の人たちがやって来て、ユリを連れてお兄さんとどこかへ消えてしまいました。
次の日になって、お兄さんがやって来ました。わたしにご飯とお水をくれました。
だけどわたしはユリがここに帰って来るのか心配で食欲がありません。
「ユリはしばらくしたら帰ってくるからな。それまで待っててやってくれ」
お兄さんは言います。
きっとユリは戻って来る。
わたしは毎日お空に向かって、早くユリに会えますようにとお願いしました。
一月がたった頃。ユリは帰って来ました。
「クルミごめんね。もうひとりぼっちにはしないからね」
わたしを抱っこしてぎゅっと抱きしめると頬ずりをして泣いていました。
優しくて大好きユリにまた会えて、わたしはこれ以上もないくらいに幸せでした。
そうしてまたわたしはユリの膝の上で眠っていました。
ユリは何か歌っていました。
それがとっても心地よくて、わたしはいつまでも聞いていたい気持ちになりました。
ユリは眠くなってしまったのか、わたしを膝に乗せたまま船を漕いでいました。
窓の向こうにはオレンジ色の太陽がゆっくりゆっくり沈んでいます。
だけど、突然太陽は白く光るとわたしの目の前にありました。
いえ、太陽ではありません。これはユリが倒れた時に現れた光です。
「猫のお嬢さん、迎えに来たよ」
その一言でわたしの寿命が終わるのだと悟りました。わたしの寿命はユリにあげてしまったからです。
「わたしはもうユリとはいられないんですね」
「猫の寿命はね、人間より短いからね。お嬢さんの寿命はもう残りわずかだ。だけどこのままお嬢さんを連れていくのは忍びない。何か、お嬢さんの願いを一つ叶えよう」
「お願いを聞いてくれるのですか?」
「何でも叶えられないけれどね、お嬢さんが悔いなく向こう行かれるようにしたいからね」
「それではわたしを人間にすることはできますか? ほんのちょっとの時間でいいのです。わたしはユリにお礼を伝えたいのです」
「分かった。それならば一分だけお嬢さんを人にしよう。短い間だけどいいかい?」
「お礼が伝えられればそれで十分です」
光はまた部屋いっぱいに広がった。
真っ白な光に目を閉じると、体が増殖するような、不思議な感覚につつまれる。
それもほんの一瞬で、目を開ければわたしは人の体になっていた。
「ユリ」
わたしが名前を呼ぶと、ユリは起きて、何度も瞬きした。
「あなたは⋯⋯?」
ユリはまだ夢の中にいるみたいな顔でわたしを見ている。
「ユリ、ありがとう。わたしを家族にしてくれてありがとう。毎日わたしを大事にしてくれてありがとう」
わたしは大きくなった腕でユリを抱きしめた。
「⋯⋯⋯クルミ、クルミなの?」
「そうだよ。クルミだよ。この名前をくれたのもユリだね。ありがとう、ありがとう。わたしはユリが世界で一番大好きだよ」
わたしたちの上にあの光が現れる。ちかちかと点滅して、それはもうわたしが人でいられる時間がないことを示していた。
「ありがとう、ユリ。さようなら。どうか幸せでいて」
光がまた全てを照らし出すかのように広がると、わたしの体はしゃぼん玉が弾けるみたいに消えた。
目を開けるとわたしはユリの膝の上で。
「クルミ、さっきのは夢なの?」
ユリは困惑した瞳をわたしに向けていた。
「白昼夢、というやつだったのかしら」
首をかしげてユリはわたしの頭を優しく何度も撫でた。
「きっとクルミとお話してみたくて、変な夢を見てしまったのね」
ユリの傍にいるのに、なぜだかユリの声がとても遠くに聞こえる。
「いつか人間と猫が話せる日は来るのかな。ねぇ、クルミはどう思う?」
深い水底に沈んでいくかのように、ユリの声が遠い。
わたしはもうここにはいられないんだ。
さようなら、ユリ。
あなたの優しい手の中で最期を迎えることができてよかった。
お盆になると人も猫も犬も、光の橋を渡って暮らしていた元の世界に帰ることができる。
わたしはあれから初めての里帰りをした。
ユリの部屋の片隅にはわたしの写真が飾られていて、その前にご飯やおやつやお水が置かれていた。
わたしがユリにもらった桃色の首輪と一緒に。
ユリ!
鳴いてみてもユリには聞こえない。
わたしはユリが来るまで、おやつをかじって待っていた。
足音がパタパタと聞こえる。
ユリが部屋に入って来た。
「クルミ、クルミ?」
足元にいるわたしが見えないのに、ユリはわたしの名前を呼んでキョロキョロしている。
「クルミの声がしたと思ったんだけど。いるわけないか。でももしかしたらお盆だからクルミも帰ってきたのかな」
きっとユリにわたしが見えるようになるのは遠い遠い未来のことだ。
見えないのは寂しいけれど、わたしはユリがここで幸せに暮らしていてほしいから、当分は別の世界で生きていよう。
きっとまた会えるから、それまでは。
クルミ 砂鳥はと子 @sunadori_hatoko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます