第27話

 午後二時十六分。警報が鳴り響く中、松比良研究員は機竜イ号と向き合っている。

「リューイは昔言ったよね。たとえコピーでも、それが完璧な『記憶の複製』を持っているなら、それは本物だって。あたしはあの時、その意味はよくわからなかったけど。

 でも今はわかるよ。リューイはリューイだって」

 松比良研究員はふと視線を足元に落とした。破砕された強化ガラスの破片や、計測機器の残骸、小さな写真立て、そして『松比良 小桃』と書かれた卓上用の名札が転がる床へ。

「リューイがあたしの中に残してくれたもの。リューイと『繋がった』時に知った数学とか物理とか、そういうの。すごく役に立ったよ。小学校で習うことなんてみんな一回で理解できちゃった。

 あの携帯端末だって、中身は高校生で直せたし。大学も飛び級で入れた。

 でもリューイを『直す』のは大変だったよ。リューイがあたしの携帯端末から色んな所にばらまいた百八つに分割したメモリ。リューイの記憶。それぞれがまた複製を作っていろんなところにばらまいて、を繰り返す。それはあたしの携帯端末を直した時にわかったんだけど、全部をどう回収していくのか。こっそり回収システムを作るのに、十五年も掛かっちゃった」

 松比良研究員は白衣の肩を竦めた。後頭部で一つに結ばれた黒髪が揺れる。

「この研究所に入るのも結構大変だったんだよ? 過去が過去だし。まあ、最終的にはあの二日間と……ジョンのお陰で入れたんだけど」

 ため息。その視線は足元に落とされた写真立て――犬のような愛嬌のある黒髪の男性が、微笑を浮かべる松比良研究員の肩を抱く写真に落とされている。

「長かったよ。リューイ。とても。

 改訂版機竜の開発担当になれて、毎日機竜と向き合って。ずっと考えていたんだ。これは全部リューイの生存戦略だったんじゃないかって。

 最初はきっと偶然だったんだ。あたしがリューイを見つけて、助けたこと。それはリューイにも計算できないことでしょ?

 でもそれからは? リューイがあたしを連れ出したのは、機竜の火器使用制御を外す、ただそれだけのためだったんじゃないか。

 あたしに優しくしてくれたのも、あたしを守ってくれたのも……あたしがリューイを好きになるように仕向けたんじゃって。

 あの時、あたしを置いていったのも。結局はリューイが『生き残る』ためだったんじゃないかって。

 リューイのことを好きになっていたあたしが、リューイに残してもらった知識で、時間は掛かるだろうけどリューイを蘇らせる。

 全部リューイの計画通りに進んだんじゃないかなって」

 松比良研究員は両の手で顔を覆った。

「あたしがジョンにしたのと同じなんじゃないかって」

それは泣いているようにも、溢れる歓喜を抑えるようにも見える仕草だった。

 沈黙は二秒間続いた。

「でもそんなことは、もう全部どうでもいいんだ」

 松比良研究員は両腕を投げ出す。その表情は晴れやかで、声は弾んでいる。

「あたしは、リューイが好き。それはもうどうしたって、百年経ったって変わらない事実なんだもん」

 会えて嬉しい。そう呟く唇は、少女のようなはにかみ笑いを刷いている。

「あたしはリューイが好きだから、リューイを直したんだ。そこにリューイの意志は関係ないよ。たとえあたしに優しくしてくれたのがリューイの生存戦略でも」

 唐突に、松比良研究員は白衣を脱ぎ捨てた。黒のインナーとジーンズ。飾り気のない、質素な衣服が現れる。

「あたしはもう、食事も排泄も必要ない。そういう身体になったんだ。今ここにあるのは、リューイと同じ無機物の入れ物」

 インナーに手を掛け、松比良研究員は無造作に捲り上げる。足元へ落とし、次いでジーンズ、そして下着すらも。松比良研究員は躊躇無く脱いでいく。

 顕になったのは、白くなめらかな肌だ。陶器のような、いっそ作り物めいたつるりとした質感の肌。胴体、そして手足の長さのバランスが適度に保たれた、人造の肉体。

「本質的にあたしであるのは、もう脳みそくらいかな。おじいちゃんが生きていたらきっと反対しただろうけど。それはもしもの話」

 一つにくくっていた髪をほどき、松比良研究員は頭を振る。黒くつややかな、絹糸めいた髪が広がる。

「あ、食べ物は確かに必要ないけれど、エネルギーは少し分けてほしいかな。脳みそを維持するためには、どうしてもそれだけは必要なんだ」

 話しながら、松比良研究員は片足ずつ制電サンダルを脱ぐ。子どものように足を振り、遠くへ飛ばすようにして。てんでバラバラの位置に飛ばされたサンダルは、やはり片方ずつ別の方向を向いていた。

「心配しないで。脳みそだけでもちゃんと火器管制はアンロックされるから。それはちゃんと実験済み。

 検体では長くは保たなかったんだけどさ、それは覚悟の違いじゃないかな、っていうのがあたしの見解。上長には否定されたけど」

 靴下を手に下げ、松比良研究員は首を傾げた。整った前髪が流れる。

「あたしはこの身体で十年生きた。リューイの一部になる練習は、済んでるよ」

 薄桃色の靴下が瓦礫の上に舞い落ちる。

 素裸の一歩は、その隣に降ろされる。ガラスの破片も機械の断片も、足の裏を傷つけるであろうものをその一歩は気にかけない。

「海はもう見飽きたけど、あたしはリューイと見たいんだ。太平洋を」

 歩みは躊躇なく続く。生まれたままの姿で、人工の肉体を持った生き物は、機竜の足元へと歩み寄る。

「だから、連れてって。リューイ」

 差し伸べる手に、機竜イ号の首が伸ばされる。その手と同じ、傷一つない滑らかな肌をした人造の竜の顔(かんばせ)が。

 その顔が割れた。開口は、百合の開花を思わせる。

 松比良研究員は微笑む。微笑みひとつを残し、消える。


 残ったのは、始まりを思わせる純白の姿をした機竜だけだった。

 機竜は、その優美な棘を広げる。飛び立つために。


 機竜イ号が飛び立ったのは、処理班の突入と同時であった。



 

                                        了

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あるいは生存戦略としての恋 こばやしぺれこ @cova84peleco

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