第26話

 十二月の海辺に雪は降らない。ただ、水平線から時折強い風が吹いてくるだけだ。

 冬の陽は落ちるのが早い。午後四時前であっても、既にあたりは夕暮れの様相を呈していた。

 海沿いの遊歩道に人影は無い。東向きの海では、夕日を見ることも出来ない。ただ風に揉まれる海鳥や、遠くを行き交う船を見るだけの物好きは、いない。

 コモを除いて。

 コモはひとり、海を見ている。遊歩道と海とを隔てる欄干に手をついて、強い風に目を細めながら。薄桃色のマフラーに、顎を埋めている。

 風になぶられる髪を、耳に掛ける。花のように鮮やかな桃色だが、根本に行くに従ってつややかな黒に染まった髪を。

 そうしながら、コモはただ海を見ている。ランドセルを背負ったまま、足元に工作の授業で作った作品や作文が詰められた紙袋を置いて。

 終業式の後コモはふと思いたち、おじいちゃんに電話をかけた。

「海を見てから帰るね」と。何時頃になるのかを伝え、そうしてからバスに乗った。十五分ほど揺られて、それから歩いて、ここまで来た。

 ぬるく篭ったバスの空気の中。それから冷たく乾いた冬空の下。

 コモは夏の日を思っていた。


 ダム湖のほとりの杉林で保護されたコモは、その後病院らしき機関に運び込まれた。そこで様々な検査を受け、しばらくの間入院していた。

 その間のことを、コモは曖昧にしか覚えていない。

 はっきりと覚えているのは、白く殺風景な病室におじいちゃんが来た時のことだ。入院させられて何日目のことかはぼんやりとしている。

 いつもしゃっきりと背筋を伸ばし、皺のないスーツに身を包んでいたおじいちゃんが、その時だけは奇妙に小さく見えたのだ。看護師らしき男に病室へ通され、コモの傍らに座ったおじいちゃん。

 怒られるかな、とどこか他人事のように思うコモへ対し。

「よかった」そう一言だけ言って、それからはコモの手を握り俯いてしまった。

 深い皺の刻まれた、乾いた大きな手。日焼けの跡があり、指は太く関節は硬い。コモは初めて、おじいちゃんの手をまじまじと見つめた。

 その日のおじいちゃんは、ただただそうしてコモの手を握りしめるだけだった。

 コモが自宅へ帰されたのは、その翌日のことだった。長いこと帰っていないように思えたが、家出から退院まで一週間ほどしか経っていなかった。

 ランドセルとショプバッグに詰めた着替え、そして病院に運び込まれた最初の検査で脱がされた服は、退院すると同時にコモへ返却された。

 リューイの『中』に置き去りにしていたと思っていたランドセルは、コモが発見された場所のすぐ側に落ちていたらしい。

 学校へは、退院の翌日から行き始めた。一週間の休みについては、たちの悪い風邪を引いたということになっていた。担任教師からの「無理はしないように」という一言だけで、コモは日常に回帰した。

 海辺の街の、閉じた日常。

 コモにとって、それは回帰であって変化でもあった。

 度々学校を抜け出していたコモは、授業をきちんと受けるようになった。一時間目から五時間目まで、きっちりと、座っているだけではなく教科書もノートも活用している。相変わらず教師も同級生もコモとは距離を置いているが、気にならない。必要な時だけ話かけ、あとは関わらない。

 おじいちゃんと話すようになった。退院してから少しずつ、コモは自分のことを話すようにしている。時には今日のように、携帯端末のメッセージで。

 そのお陰かはわからないが、秋の終わりにコモは水族館へ行けた。おじいちゃんと二人で、ではあったが。『街』の外にある、いつかの遠足で行けなかった場所へ行ったのだ。

 初めて見たハナミノカサゴは、コモの想像よりも小さかった。触れてみたイルカの肌は、いつか触れたリューイの棘を思わせた。


 少しずつだが、コモにはおじいちゃんのことがわかってきたような気がしている。

 目の見える場所に置きたがるのは、心配なのだ。おそらく、おじいちゃんはコモのことが本当に大切で、だからどこにも行かせたくないのだろう。

 コモの意志とは別にして。

 だからコモは、おじいちゃんの『大切』との折衷案を模索している。その一つが、一緒にでかけることだった。正直、コモ自身ははじめ自分の思いつきに乗り気ではなかった。話すようにはなっていたが、おじいちゃんとでかけることが楽しいとは思えなかったのだ。

 結果。コモは心から「また来ようね」とおじいちゃんに言うことができた。

 コモには、やりたいことがある。

 そのために、コモは学校にきちんと行くようになった。

 そのために、コモはおじいちゃんと向き合うようになった。


 コモはデニム生地のスカートから、携帯端末を引っ張り出す。冷たい海風の中、かじかむ手で時間を確認する。帰りのバスまで、まだ余裕がある。

 鼻を鳴らす。ツンとする潮の匂いは、冬の空気では少し薄い。

 再びスカートのポケットをまさぐる。先程時刻を確認した携帯端末をしまったのとは逆側。そこからもう一つの携帯端末を、今度は落とさないようにそっと、引っ張り出す。

 画面に蜘蛛の巣状のヒビが入った携帯端末。それは電源ボタンを何度押そうとも、いくら充電しようとも、もう明かりを灯すことはない。

 リューイからの最後のメッセージを受け取ってから、この携帯端末は動かなくなった。

 それでもコモは、この携帯端末を捨てることができないでいる。

『またね コモ』

 見返すことはできないが、確かにそう書かれていたメッセージ。

 その言葉の真意は、コモにはわからない。コモを置いて飛び去ったリューイが、なにを考えてそうしたのか。

 どうしてリューイは、コモを連れ出したのか。

 コモは確かにあの時、あの瞬間、リューイのことが好きだった。閉じられた『街』からコモを連れ出し、コモを守ってくれていたリューイに、確かに恋をしていた。一緒に消えてしまってもいいと思えるくらいに。

 今でも、ずっと。

 リューイはどうだったのだろうか。『繋がって』いない今、リューイが居ない今、コモにはわからない。あの時は確かに、リューイからの好意を感じていたのに。

 コモの髪を梳いた棘。Tシャツやキャミソールを「似合うよ」と褒めた声。

 その時には確かに感じていたはずの感情は、時が経つほどに遠く薄れていく。

 だからコモは再び学び始めた。真面目に学校へ通い、教科書にかかれていることを全て理解しようと努めている。

 まずはここからだ。とコモは思っている。手のひらに乗る小さな機械。壊れて動かない携帯端末。これを直して、そして再びリューイからのメッセージを読めた時に、リューイの思惑の一端が理解できるのではないか。

 そうコモは信じている。

 またね、というリューイのメッセージ。それがまやかしではなかったのならば。

 きっと再び出会うことができる。どういう過程を辿り、どういう対価を払えば良いのかは、わからない。

 けれどきっと。

 

 ポケットの内側が震える。厚手のデニム生地の中で、震えは長く続かなかった。コモはそれを感触で確認すると、ゆっくりとした動作で割れた携帯端末をしまった。

 陰り始めた日差しの中で、冬の海は寄せては返し、暗い色の身をのたらせている。

 始まりに似た白でも、終わりに似た黒でもない色。

 あの日の海は、どんな色をしていただろうか。コモには、もう思い出せない。

「コモ」

 声は控えめな響きでコモの耳朶を揺らした。視線を走らせる、その先。まず目に入ったのは黒いブーツだ。山を歩くのに適しているだろうそれ。ゆったりとしたズボンの裾がその中にたくし込まれている。濃い緑の上着はズボンと同じように身体を柔らかく覆っている。広い肩にコモよりも高い背。レンガ敷きの道が、緩やかなカーブを描いて伸びる、その中ほどに彼は立っている。

「ジョン」素直に名前を呼べていたことに、コモ自身が一番驚いていた。

 コモの友達『だった』彼。

 あの時リューイを消し去った黒の機竜がどうなったのかを、コモは知らない。外国籍の機竜であるならば、勝手に国境を越えたことで何か問題が起きたりしたのだろうけれど。それはニュースにもならず、また『巻き込まれた』人間であるコモにも知らされることはなかった。

 どうして彼がここにいるのだろうか。

 数歩、ジョンは距離を詰めた。コモは黙したままその歩みを見ている。後ずさることも、歩み寄ることもしない。

 その頑なにも見える態度へ臆して、だろうか。顔を突き合わせて話すのには、少し距離がありすぎるのではないかという地点でジョンの足は止まった。

 ジョンの格好は、初めて会った時よりも杉林の中で再会した時のものに近い。――黒の機竜が近くにいるのであろうか。それとも、一人で来たのだろうか。この海辺の街まで。

 一人で?

 その時湧き上がった感情に、コモは名前を付けられない。

「やっぱり」

 コモの足元の辺りに落とされていたジョンの視線がゆっくりと上げられる。黒く、濡れた瞳。長い鼻先を持つ、柔らかな毛皮のけものを思い起こさせられる、男の人のものにしては優しすぎる目。

「どうしても、やっぱり……一度、謝りたかったんだ」

 下げられた眉の下、その瞳にコモは捨てられた犬を連想する。

 コモに謝る。どのことについてだろうか。何も知らないふりをしてデートの真似事をしたこと? リューイを殺したこと?

 そのために、たった一人でこんな寂しい、来たこともない街に来たのだろうか。

 コモに謝るため、それだけのために。

 コモがもしジョンで、ジョンがコモの立場だったら。コモは、何の感情も無い相手にそこまでするだろうか。

「ジョン」彼の機竜とは違う、つややかな黒い瞳を見上げたまま、コモは一歩の距離を詰めた。

 ランドセルの金具がかちゃんと鳴る。海風がジョンとコモの間をすり抜ける。


「許せるかどうかは、わかんないけど。友達から、始めない?」

 冴えた空気を切り裂くように勢いを付けて、手を差し出す。手のひらを立て、受け取るのではなく繋ぐための手を。

 ああ、大人の男の人もそんな泣きそうな顔をするんだ。コモは口に出さず、口元にだけ笑みを浮かべる。


 焼けるような日差しは無く。ただ冷たく乾いた風だけが、コモの桃色の髪を撫でて、過ぎ去る。

 ぱしゃり、と水が跳ねる音がした。遊歩道の壁に当たる波よりも軽やかで、卵の殻が内側から破られたような音。コモは音がした方向、自身の背後に視線を落とす。

 そこには何も無い。ただレンガ敷きの道が、遠くへと伸びているだけだ。

 コモは目を細めた。そうしても、夏の日差しは見えない。白く、陶器のようなつるりとした手触りの生き物は居ない。

「またね」

 呟きは海からの風にさらわれる。

「どうかした?」

 振り向くジョンに、なんでもないと答える。

 白いスニーカーの底をざりりと鳴らし、コモは海に背を向ける。

 時間はまだある。バス停の自販機で飲み物を買ってバスを待とう。ジョンと一緒に。寒いけれど、オレンジジュースが飲みたい。

 そう思いながら、歩き出す。

 春に咲く花のような毛先を風に遊ばせながら。

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