第20話
どれだけの距離を、どれだけの時間走り続けたのか。コモにはわからない。どこまで行っても同じように続く杉林の中を、ただただ進み続けていた。
上空を見上げ、耳を澄ませ、葉擦れの中に金属の擦れ合う音を探しながら。
そうする内に、気がつけば土を踏み固めた細い道に出ていた。車一台がようやっと通れるほどの広さ、杉林が途切れている。山に用事のある住民が、麓にいるのだろうか。
リューイと黒の機竜、その姿を上空に探すために、空が見たかった。
山を下る方向へと向かう。そのうちに、次第に辺りが明るくなってきた。密生する木がまばらになっていき、人が頻繁に訪れている気配を感じられるようになる。
そうして、コモは舗装された道にたどり着いていた。地面に刻まれた轍の深さが、人の訪れる頻度を雄弁に語る。周囲には青々と葉を伸ばす田が広がり、ぽつりぽつりと人家が建っている。田んぼを突っ切るように伸びる道を進む。
やがて合流するのは、片側一車線ずつの道路だ。踏み固められた土でも、積み重なった枝葉でもない、硬いコンクリートを踏む。人の気配を感じるのは、久しぶりに思えた。
空は抜けるような青さだった。太陽も、いつの間にか高い位置に近付いてきている。
リューイの姿を、痕跡を探す。ぐるりと空を見回す。雲ひとつ無い、空。
山を渡る風の音だけが、コモの耳をくすぐった。その中に高く響く音を聞き、首を巡らせる。幻聴のような、一瞬の澄んだ音色。
リューイ、とうわ言のように呟き、コモは一歩を踏み出した。ふらふらと、夢を見ているかのような足取りで、奇妙に静かな道を行く。白線で区切られた歩道ではなく、車道の真ん中を。
幸いなことに、辺りに車の姿は無い。
コモの思考はうまく回っていなかった。蓄積された疲労がコモの思考を奪っている。すでに足は棒のようになり、もはや痛みすら感じられない。
喉はカラカラに乾き、乾いた汗がTシャツにうっすらと白く跡を残している。肌がべたつく、と思いながらもそれ以上の事を考えられない。
コモはただ予感だけに突き動かされている。
この先を曲がれば、リューイに会えるのではないか。あと一歩進めば、リューイが見つけてくれるのではないか。
それはもはや祈りに近い願望だ。コモは神の子の復活を待つ信徒のように、足を進めている。
どおん。という音がコモの耳に届いた。鳥追いの空砲に似た、残響の尾を長く引く音だ。ただ、今のそれは空砲よりも水気を感じられる、低い音に聞こえた。近ければもっと大きく聞こえ、飛沫を頭からかぶっていたような。
そう。巨大な何かが水に落ちた音だ。
リューイ? 呼び声は乾いた唇からこぼれ落ちる。
コモは足を引きずりながら、音の方向へと進む。その歩みは、次第に早まる。急く気持ちが足取りに現れ、しかしもつれ、転びかける。
河の流れが聞こえる。橋が見えた。
大きな橋だ。コモが今辿りついた橋の始まりから、向こう岸の終わりまで、数百メートルはある。橋の真ん中にある高い塔から、いくつもの太いワイヤーが伸び、巨大な生き物の骨格標本めいた姿をしている。斜張橋という橋である、という説明書きが歩道の端に掛けられていたが、今のコモにはその名前について思いを馳せる余裕は無い。
水の流れに誘われるまま、橋を渡る。容赦なく照りつける日差しが、橋を支える鉄塔を白く光らせている。コモが望むものに似た色に。
橋の中ほど、鉄塔の傍らにたどり着く。余裕があれば、その高さに歓声を上げていただろう。
あるいは、望む存在が側にあれば。
橋の欄干から流れを見下ろす。橋から水面までは、校舎の屋上から校庭を見下ろした時を思い起こさせる。水の色は深い。
その下に、ゆらりと泳ぐ巨大な影を見た気がした。
視線。それは時に物理的な感触をもって自覚される。流れの中からではない。見えたはずの影は既に無い。コモはゆっくりと振り向く。背中に触れた視線の先へ。
橋の向こう。河の流れの先に浮かぶのは、黒い影。
太陽を背負っている所為ではない。幻覚を見ているのでもない。それは初めから黒い姿をしていた。
黒の機竜。禍々しくもあり、愛らしくも見える。それはリューイとは真逆の色であり、また似通った姿形だからだろうか。
その側にリューイの姿は無い。
目が合った。とコモは思う。その漆黒の顔(かんばせ)に、目は付いていないのに。
リューイの時と同じだ。ふとコモは微笑んだ。口元を緩め、目尻を下げ、声を上げずに笑う。そう思ったのが、もう何十年も昔に思われたのだ。
黒の機竜は徐々に近付いてくる。コモを捕らえようとしているのだろうか。
駄目だよ。コモは呟く。誰に聞かせるわけでもなく、自身に確認するのでもなく。ふと浮かんだ思考をそのまま口に出している。
「あたしはリューイのだから」
黒の機竜に背を向ける。コモの中で予感は大きくなっている。この先にリューイはいる。
必ず。
橋の欄干は白いパイプを組み合わせたような単純な作りをしている。運動は苦手なコモにも容易によじ登れた。危なげなく、欄干の上に立つ。
川面から冷えた空気が上ってきていた。風は汗の浮いたコモの額を撫で、前髪を揺らす。陽光にきらめく水面が見渡すかぎりに広がる。
恐怖は無かった。むしろ土曜日の朝のような清々しさがある。経験は無いが、誰か大切な人と約束がある日の朝だ。
そしてやけになったのでもない。コモにはリューイに会えるという確信がある。まるで初めからそう示し合わせていたかのように。
背後に迫る気配を感じながら、欄干を蹴る。スキップするように。足で空を掻くことなく、自由落下に身を任せる。
コモを包むのは、殉教者の安らぎだ。近付く水面を前に、目は閉じない。
待っている。その時を。
時間にして、数秒にも満たない。その狭間、コモは揺らめく水面がその身をもたげ、割り開かれるのを見ていた。飛沫の一つひとつが陽光を浴び、祝福のようにきらめく。
白の機影。現れた機首にいくつもの亀裂が走る。一直線に自ら割れていく。滑らかなその肌に流れる、水滴。
百合の開花を思わせる開口。
コモはその全てを見ていた。胸に湧き上がる喜びと共に。
そして自ら竜の口に身を委ねる。
暗転。
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