第19話
「コモ」
背後から腕を掴まれる。肩を震わせ、コモは視線を跳ね上げた。
振り仰いだ先にあったのは、澄んだ黒く丸い瞳。その目にコモは二の腕を掴む手の強さとは真逆の、柔らかく温かな毛皮を想起させられる。
肩幅や、背の高さから来る威圧を和らげ、どんな相手であろうと警戒を解いてしまうであろう、柔和さ。彼の持つそれは、在る種の武器なのだろう。コモも、心を許してしまうほどの。
昨日別れたはずの、友達。金森ジョン。
その姿を認め、コモは奥歯を噛む。いつの間に追いついていたのだろうか。気配に気付けなかった。
「頼むから、逃げないで」
ジョンの分厚い手のひらは、コモの二の腕に添えられているだけに思える。が、コモが渾身の力で引っ張ってもびくともしない。
散歩中のわがままな犬のように傾きながら、コモはジョンの様子を伺う。
見上げるコモの瞳と一瞬だけ視線を合わせ、しかしジョンはふいと視線を反らした。その額には汗が浮き、いくつも玉となりこめかみや顎に伝い落ちている。
ジョンの格好は昨日見たものよりもだいぶ変わっていた。水族館の飼育係が着るような、黒いピッタリとしたウェットスーツのような衣装。その上に羽織ったジャケットは、いくらか煤のような汚れが付着している。足元は山歩きに使うようなごついブーツだ。この足元なら、山道を駆け抜けるのもいくらか楽だろう。
「……ごめん」
「嘘つき!」
思わず口をついて出た言葉はコモの内から湧き上がったものだ。放ってから、コモは自身の感情と向き合っている。
ジョンは、嘘をついていたわけではない。わかってはいる。
強く睨めつけた先で、ジョンはどこかが痛むかのように目元を歪め、口元を震わせた。
「騙すつもりじゃ、なかった。……って言っても全然信じてもらえないと思うけど」
「……放して」
「それは出来ない」
再びコモは踏ん張り、腕を引く。だがやはり、頑丈な体躯はゆらぎすらしない。
ジョンはただ、話さなかっただけだ。コモがリューイのことを話さなかったように。
でもきっと、あの出会いは偶然ではない。コモにだってそれくらいはわかる。どうやってかはわからない。けれどきっと、リューイが自分を追う者たちの言葉を盗み聞きしていたように、どこかでコモたちのことを知ったのだ。そうして、コモに近づいた。
「リューイを、殺すつもりなんでしょ」あの黒い機竜と共に。
ジョンの眉が寄せられ、眉間に深い皺が刻まれる。
「俺の仕事は、コモを無事に家へ返すこと」
「帰りたくない!」
帰る、という単語に、コモは反射的に叫んでいた。耳の奥に低い呼び声が蘇る。打ち消すように耳を押さえ、首を振る。今すぐに、少年のような少女のような、いたずらな響きを持った声を聞きたかった。
耳朶に落とされたのは、全く違う響きの声だ。それでもその声音には、どこか甘やかな色が混ざっている。
「または、コモと機竜イ号の確保」
「かく、ほ?」それはコモを家に帰すことと違うのだろうか。
瞬くコモに言葉が続く。
「正確には、君――コモだけを。俺の所属する組織は、コモの存在を欲している」
「なんで?」
「機竜と適合できる人間はあまり多くない」
てきごう、とコモはジョンの紡ぐ言葉を繰り返している。リューイの口ぶりでは、機竜に乗り込み『宣言』さえ済ませれば誰でも登場者たりえるように思えていたのだが。
「コモのこと、調べたんだ。ご両親がコモを置いて出ていってしまったことも、コモのおじいさんがコモのことを大事にしすぎてるのも」
両親、そしておじいちゃん。その単語はコモの背に小さな怖気を走らせる。
「だから、コモが望むなら俺はコモを遠くに連れて行ける。コモが望む『街』の外に」
視線がかち合った。ジョンの、忠実な犬のように澄んだ瞳と。その目は確かに、コモを見ている。コモを、心配している。痛いほどにコモはそれを感じ取っている。
「俺は、コモを傷つけたくない」
どうしてだろうか。昨日会ったばかりの、ただの小学生に。どうしてジョンはそう言えるのだろうか。
この人は、私のことが好きなんだろうか。
「それにきっと、コモはイ号に騙されてる」
それはジョンの方だ。反射的に叫ぼうとして、しかしコモはジョンの瞳を前に黙したままでいる。
「イ号が何を言ったのかはわからないけれど……このままイ号と逃避行を続けられるはずがない」
言い切る言葉は強い。そして視線も。
「いずれ破綻する。確実に。あんなことをしでかして、引っ込みがつかない気持ちはわかるけど、でも」
ぐ、と二の腕に添えられていた手に力が込められる。痛む一歩手前。感覚は熱となってコモに伝わっている。
「でも大丈夫だ。みんなちゃんとわかってくれる」
「……え」
そこでようやっと、コモはジョンの言葉を咀嚼した。喉が震える。
騙された。それはリューイが嘘をつき、コモを利用したということだ。
あたしはリューイに騙されたの?
「大事なのは、コモの意志だ。一緒に、来てほしい」
「あたしの」意志。コモは口の中で呟く。
あたしはリューイに騙されたんだろうか。コモは自身の記憶を掘り返す。
出会ったあの日。すでにもう何年も経ってしまっているように思えるが、つい二日前のことだ。あの時のリューイ。小さく、弱々しく、コモの手にすり寄った姿。あれはけして偽りではなかった。
その次の日に、コモはリューイと初めて言葉を交わした。朝の澄んだ空気の中、陽光にきらめく陶磁器の肌。おてんばな少女と、物静かな少年とを混ぜ合わせた声。語られたのは、海の彼方からやってきたリューイのこと。
そしてコモは。
「コモは、騙されたんだ」
「違う」
コモは確信を持って答えた。言い聞かせるように繰り返す、ジョンの言葉へ。
「あたしは、あたしが望んだの」
太平洋を。
空気が震えている。犬笛の響きに似た、可聴域を超えた音域の騒音。それは次第に枝葉を、木を、大地を揺るがすものへと変わる。
木々に遮られた陽の光が、さらに陰った。それは日食さながらの暗度。ジョンが空を、杉の葉群れを見上げる。
風が、コモの前髪を跳ね上げた。
ど、という衝撃。山を崩さんばかりに響き渡るそれに、ジョンはたたらを踏む。
コモとジョンから数メートルの距離に墜ちたのは、黒と白の塊。杉の葉が、枝が、幹が折れ崩れ落ちる悲鳴が絶え間なく響く。その合間、甲高い笛のように鳴らされる音。
二頭の機竜、その鋭くしかし鞭のようにしなやかな棘が絡み合い、擦れ、軋む。管楽器二重奏さながらの音色を奏でる。
「あたしが決めたの! リューイと一緒に戦うって。リューイと一緒に行くって!」
コモは叫ぶ。地響きに、木々の断末魔に、機竜の戦いが奏でる二重奏に負けぬよう。
コモに迷いは無い。後悔も無い。ただあるのは幼さゆえの、しかし幼さからくるものだけではない、純粋な決意。
ジョンが体勢を崩したその一瞬。コモはその手の軛から逃れる。
「リューイ!」
呼ばう。万感の思いを込め。
駆ける。全身全霊で。
降り注ぐ枝葉や、真横を掠め倒れる巨木を恐れることなく。
コモの瞳はただ白の機竜、リューイだけを映している。
絡まり合う棘。交錯する黒と白は混ざり合うことなく、互いを刺し貫く。
その戦いは無音だ。二頭の機竜は、気合もなく棘を振るい、胴を突き刺されても悲鳴すら上げない。その代わりに巻き込まれなぎ倒される木々が、悲痛な軋みを上げ続けている。
「リューイ!」
コモは手を伸ばす。互いを貫き、引き裂こうとする機竜へ向かい。黒の棘を引き抜こうと、己の棘を絡める白の機竜へ。
コモ、と。
コモには確かに聞こえていた。白の機竜、そのおよそ表情を構築する要素の欠片もない顔が、確かにコモへと向けられていた。その時に、己を呼ばうのを。
金属が擦れる、ぞっとするほど高い音。いびつな弦楽器を思わせるその音と共に、白い棘が、コモへと伸ばされる。コモの呼び声へ応えるように。懸命に差し出される細く傷だらけの手に、触れようとする。
ぎいん、という音は、コモの耳には痛嘆な叫びに聞こえた。限界まで張り詰めた糸が切れたような、草をはむ獣の断末魔のような。
それは黒の機竜が振るった一条の棘が奏でた音だ。白の機竜、リューイがコモへ向け伸ばした棘を弾いた、その瞬間に響いた音。
闇を細く引き伸ばしたかのような漆黒の棘は、そのままリューイの棘に絡みつく。
黒の機竜は、幾筋もの棘をリューイに絡ませ、突き刺したままその巨体を空へと躍らせた。黒と白の機竜の間で、複雑に絡まりあった棘が軋む。樹齢何千年もの巨木が寿命ゆえに倒れるような、太い音が生まれる。
呼応したのか、それとも抗いきれなかったのか。リューイの白い身体が宙へ浮く。
黒と白の機竜は、絡まり合いながら飛び立つ。
「コモ! 戻ってこい!」
焦りのにじむ声。コモは振り向かない。
コモは二機の機竜が飛び去った方向へ、また走り出す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます