第18話
道路からみれば鬱蒼として見えた山は、しかし存外に下草が少なかった。野放図に枝葉を伸ばしているように見えたが、実際は手入れされているのか。それとも生い茂る針葉樹の葉が濃く、成長できるほどの光が届かない所為か。
コモにどちらが正解かはわからない。考える暇も無い。光の薄い杉林の中を、コモはただ駆け抜ける。
少なく小ぶりな下草や低木は、細いコモの足で駆ける助けになっていた。街を歩くことしか想定されていないスニーカーでも、なんとか踏みつけ飛び越え、下ることが出来ている。
ただ杉の木の本数自体は多く、コモの視界をストライプ模様に遮っている。細いコモの体躯でどうにかすり抜け、それでも肩をぶつけそうになりながら、走る。
ここからどこへ行けば良いのか、コモにはわからない。ただリューイが「逃げろ」と言った。それだけを頼りに、走っている。
そうすれば、きっとリューイは迎えに来る。確信だけがコモを突き動かしている。
息を吸い、吐いて、肺が痛むほど呼吸して、腕でバランスを取り、うまく杉の木を躱すルートを判断し、足を前へ。
単調になる身体の動き。コモは運動が苦手だ。体育の授業でも、いつも周りから遅れ、邪険にされる側の人間だ。だから最近は体育の授業自体を出席拒否していた。
こんなことになるなら、マラソンも頑張っておけばよかった。
額から流れる汗を手の甲で拭い、コモは歯噛みする。足元がもつれ、それでもかろうじて足は前へ。初めに飛び出した勢いは既に無い。
とにかく、止まらない。コモはそれだけを意識する。そうして痛み始めた足や肺から意識をそらすように、思い起こす。
黒の機竜。あれはロ号でもニ号でもなかった。リューイの記憶にある限り、どちらのカラーリングも黒では無い。変更した、とも考えられるが、リューイを追うための整備でそんな無駄なことをするとは思えなかった。
可能性としてあるのは、海外の機竜だ。リューイの記憶に無い機竜であるのなら、それが一番ありえる。
機竜は元々海外で初めて開発されたものだ。公表されてこそいないが、緊張感が高まる世界情勢の中、切り札のひとつとして「ある国」に保持されている。
機竜が開発されたある国の研究所と、国防上協力関係にあるこの国の機関とが共同で開発したもの。それがリューイだ。
本場の機竜と、その搭乗者がどの程度の実力を持っているのか。
コモが誘拐されたのは、想定のひとつだった。
リューイの強みは、搭乗者があることだ。それだけで機竜本来の武装を十分に使える。そのアドバンテージを相手が奪おうとすることは、簡単に予想できる。誘拐はリューイと話す中でシュミレーションしており、だからこそコモも「本番」で落ち着いていられた。
だが海外の機竜が来ることは、想定外だった。
国家機密である機竜の脱走など、この国の機関であれば全力で隠蔽するに決まっていた。技術提供を受けている側の立場であれば、なおさら。
正直に協力を仰いだのか、それとも嗅ぎつけられたのか。
一抹の不安がコモの胸に過ぎる。
リューイは優秀な機竜だった。運用停止が決定されたのは、単純に古いからというただそれだけだ。現にリューイより後に開発されたロ号の方が、リューイよりも先に停止されている。
だがそれは同じ研究所内での話だ。海外の機竜とリューイは、戦ったことがない。
勝てるのだろうか。リューイは。
コモの足は、既に歩くのと変わりのない速度しか出せていない。土と踏みつけた草の汁とで汚れたスニーカーのつま先を、引きずるようにしてかろうじて進んでいる。
下り坂になっているとはいえ、慣れない山を歩くのは骨が折れる。体力もなく身体もできていない、小学四年生にはなおさらだ。それにコモは短いスカートにTシャツという山に適さない格好なのだ。黒い機竜が現れた時の怪我もあり、膝から下や腕に細かいキズがたくさんできていた。
「いたっ」
疲れから、杉の木から飛び出していた枝に気付くのが遅れた。肘の上、二の腕に近い皮膚が切り裂かれる。痛みに遅れて、じわり、とにじむ赤。
血を流す腕を見下ろし、それでもコモは前を向いた。手のひらで乱暴に傷を擦り、意識しないように自身に言い聞かせる。
今までなら、歩くのを止めていたところだ。そうしておじいちゃんに連絡して、迎えを寄越してもらって。家に帰ったら、ミチコさんが大慌てで手当して、「痛かったね」と慰めてくれる。
今、コモは誰にも頼らない。コモは「外」へ行くと決めたのだ。もう帰らない。
リューイが行けと言ったから、コモは進む。ひとりででも、山の中でも。
きっとリューイは迎えに来る。それだけを拠り所にして。
あの黒い機竜にまだ搭乗者はいるのだろうか。
ぞっ、と背中が粟立つのを感じた。
もし居たとしたら。搭乗者の居ないリューイに勝ち目はない。実力差がどの程度なのかはわからないが、搭乗者のいる機竜といない機竜では攻撃力に差がありすぎる。
コモの心臓が大きく脈打つ。胸が張り裂けるほどの、鼓動。それは疲労から来るものではない。純粋な、恐怖からくる拍動だ。
リューイが、負けてしまう。
いや。でも。どうして。足元がもつれ、コモは傍らの木に手をついた。足が止まる。だがそれにすら、コモは気付かない。
思考が目まぐるしく巡る。視界が暗くなるほどの集中。コモは必死に、リューイが無事である可能性を思考する。
もし、黒い機竜に搭乗者がいたら。機竜の武装は全て使えるはずだ。コモを助ける為にリューイが振るった棘、そしてハ号を墜とした光弾。
機竜の最大の武器である光弾。黒い機竜は、それを使っていない。
黒い機竜は、リューイと相対した初激、光弾ではなく棘を使っていた。それは光弾を使えないか、もしくは目的がリューイの破壊ではないかのどちらかだ。
今現在、光弾が放たれた際の音や光はコモに届いていない。あれだけの威力を持つ光弾だ。一度でも使えば、山の中を走っているとはいえコモが気付かないはずがない。
だとすれば、リューイは無事だ。使える武装が棘だけならば、リューイはきっと互角かそれ以上に戦える。
コモは深く息を吐く。知らず息を止めていたのか、頭がくらくらとした。深い緑の匂いを、肺の奥に吸い込む。
黒い機竜の目的も、搭乗者の有無もコモには推理できない。でもリューイの無事だけは確信できる。
リューイなら、きっとだいじょうぶ。
目的のせいか、搭乗者不在のせいかは不明でも、光弾の使えない機竜相手であれば、コモの合流で一気に方をつけられる。
コモは頷く。そうしてまた一歩を踏み出そうとして、それに気付いた。
裾のほつれたスカートの、ポケット。その中で、静かに震えるものがある。
通話状態にしていたはずの携帯端末。コモはポケットに片手を入れ、その震えが幻覚でないことを確かめる。耳には着信を知らせるためのメロディがかすかに届いている。あの騒ぎの中で、通話が切れていたのだろう。
「リューイ?」
急いで引っ張り出し、応答する。
画面も見ずに。
『小桃か』
コモはその声を聞くたびに、居間の壁に掛けられた時計の出す音を思い出していた。一時間ごとに鳴る、ぼぉん、という低い音。真夜中でも、朝早くでも、どこに居ても聞こえてくる。
おじいちゃんの声。
「いやっ」
悲鳴。それはコモの喉からほとばしっていた。短く鋭い、小鳥の警戒音に似た声。まるでそこから手が伸びて捕まるとでも思っているかのように、携帯端末を投げ捨てる。
息が震える。落ち着き始めていた心臓が、また痛いほど鼓動を刻み始めていた。
嫌だ。コモは口に出して呟く。うるさいほどに鳴る胸を押さえる。聞こえれば、捕まってしまう。息も。口を塞ぐ。
帰りたくない。絶対に。帰れば、閉じ込められる。あの街に。
嫌だ。首を振る。汗で湿った髪が、頬に当たる。落とした視線の先、汚れたスニーカーのつま先があった。視界の隅には、携帯端末が。
指が当たったのか、通話は途切れ、その画面は時刻を知らせるものに変わっていた。
コモは画面を見つめる。拾いもせず、ただ見つめている。また通話が来るかもしれない。その時に、間違ってまた応えてしまったら。
今度こそ捕まってしまう。
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