第17話

 コモに恐怖はない。リューイは、必ず来る。呼び声は確実に届いている。コモは思いを喉に乗せている。

 きらり、と。流れる空の向こう側が光った。

「お嬢ちゃん、そろそろ静かにしないと――」

 轟音。

 衝撃。

 破砕音。

 車体が悲鳴のような音を立て、急停車する。それは予期せぬ停車だった。運転手が望んでのことではない。運転手か、助手席の男か、それとも後部座席の二人か。太い叫びが聞こえる。走り続けるはずだった勢いは、行き場を失い車体をめちゃくちゃに暴れさせる。コモは急流に揉まれる木の葉のように、床で転げざるを得ない。

 コモはただ、強く目を閉じ、身体を丸めている。木の葉のように、ただ勢いに身を委ね耐えている。

 リューイ。舌を噛まぬように閉じた口の中で、祈るように唱えている。

「イ号が!」

「上か!」

 見上げた天井は、落石にでもあったかのように歪み、車内へ向けひしゃげていた。割れたガラスだろうか。透明な欠片がコモの顔に降りかかる。

 呆然とするコモの胴に、太い腕が回された。再びコモを担ぎ上げたのは、少年の面影を残した男だ。だがその横顔に笑みは無い。

 ぱぱぱ、という軽やかな音が連続する。火薬の匂いがコモの鼻先を掠める。

「行くぞ!」

 声は助手席からだ。

 男たちはひしゃげたドアを蹴破る。かろうじてドアフレームにぶら下がっていたガラスが飛び散る。コモは男に担がれたまま、それを見ている。夏の日差しが強烈にコモを刺し、ガラスの破片が煌めいた。

 コモは己が今どこにいるのか見当もつかない。周囲はただ鬱蒼とした木々に囲まれ、無愛想なコンクリートの道がただ緩やかに伸びている。

「リューイ!」

「コモ」

 もう幾度目か、張り上げた声に応えはあった。澄んだ泉に投げ込んだ、小さく丸い石が作る波紋のような、穏やかな声。

「くそっ」コモを肩に抱え上げた男の舌打ちが響く。

 コモを抱えた男をかばうように、二人の男が前に出る。コモを拘束した男と、もうひとり。

「アルファシックス! 車両回せ!」

 がっしりとした体躯の男は耳に指を当て、叫ぶ。その腕は無残な擦過傷に覆われ、数滴の血が地面へ垂れ落ちる。

「アルファフォーは」

「駄目だ」

 短い言葉が交わされる。その意味は、コモにはわからない。

「コモ、来たよ」

 リューイの声が聞こえる。不自由ながらも周囲へ首を巡らせ、コモはリューイを探す。優美な棘を広げた、ハナミノカサゴを思わせるその姿を、早く目に映したかった。しかし影も形も無い。

 だがコモは見た。

 男たちが対峙しているのは、コモが乗せられていたのだろう、無残に歪んだバンだ。その天井、そこには確かに何かが乗っていた。空気が、空間が、歪んでいる。

 花びらを広げたような、優雅なシルエットに。

 瞬間、空気が爆ぜた。耳を刺すのは連続する破裂音だ。先程車の中でも聞こえたその音が、銃を撃つ音だとコモは初めて認識した。コモを拘束した、表情の薄い男が撃っている。映画でしか見たことのない、ライフル銃だ。

 リューイが撃たれてる。コモは身を起こし、ライフルの向けられる先を注視する。

 高速で放たれる鋼鉄の弾丸。飛んでいったそれは、ある一点で火花を放ち、消えている。

「今のイ号は人を攻撃できない! 恐れるな!」

 薄い表情の男が銃口を下げると同時、頑丈そうな体躯の男が発砲する。

 耳が痛くなるような連符が続く。コモは表情の薄い男が、腰に下げたポーチから小さな箱を取り出すのを見ている。男は取り出したそれを、ライフルの下部にある部品と交換する。

 そして再び発砲した。

「リューイ! 『助けて』!」

 火薬の爆ぜる音、そして排出される空薬莢がコンクリートで跳ねる甲高い音。連続する殺意の篭った不協和音を、コモの声が切り裂く。

 それは時間にして三十秒にも満たない間のことだった。だが今まで経験したなによりも、コモには長い時間に感じられた。

 甲高いブレーキ音が鳴り響く。緩やかな登り坂になっている山道を、一台の乗用車が駆け上る。

「アルファスリー、対象を連れて行け! オレたちは」

 続く言葉は轟音にかき消された。爆ぜるのは火炎と煙。焦げる匂いを乗せた風がコモの頬を撫でる。

 今まさに、ここへ到達するはずだった乗用車。それは黒煙に巻かれ、もはや何の用も足さない鉄くずと化した。

 かつて乗用車であった鉄くずは、見えない何かに貫かれている。ず、と。車体を貫いたものが引き抜かれる。空気を、黒煙を歪ませる、絶対的な存在。

「わかった。今助ける」

 空間の歪みが、増す。気のせいにも取れた違和感が実感となる。白く、つややかなその身体が、空気から滲み出す。もはやステルスの必要もないと判断したのだろう。リューイの姿が顕になる。

「下がれ!」

 コモの呼び声で馳せ参じ、コモの――搭乗者の命令で攻撃の箍を外された、機竜が。

 空を切る音は、短い悲鳴にも似ていた。コモの眼前、リューイとの間に立ちはだかっていた二人の男の姿が消える。

「ぎゃ」か、「が」か。濁った声は遠くから聞こえた。

「コモを放して」

 二人の男を同時に薙ぎ払った棘を、リューイはゆっくりと引き戻している。その鋭さを、しなやかさを、見せつけるように。同時、広げた棘の先端がコモを抱えた男へ向けられる。棘同士をわざとこすり合わせ、耳障りな音を立てながら。それは明確な威嚇だ。害意と殺意がみなぎる。

 コモは、自身を抱えた男の動揺を感じ取っている。肌が触れるほど、というよりは触れ合う距離にいるのだ。嫌でもわかる。

 逃げちゃえばいいのに。あたしを置いて。一体なにを躊躇することがあるのだろう。

 コモはリューイの優美な姿を目に収め、その時を待っている。

 間。男の顎を、一筋の汗が流れ落ちる。

「――コモ!」

 静寂を打ち破ったのは、一筋の落下物だった。

 雷鳴に似た、耳をつんざく轟音。それは地を揺るがす衝撃を引き連れていた。太い体躯と体幹を持つ男を転ばせるほどの。コモの細い肢体が投げ出される。

 もうもうと立ち上る土煙の中、コモは転がっている。悲鳴もなく、身体を丸める暇もなく、勢いのまま。砂利や割れたガラスの細かな破片が落ちた地面は、コンクリート敷きであることも相まって露出したコモの膝や肘をしたたかに痛めつける。

「リューイ!」

 ようやっと到達した慣性の終点で、コモは半身をもたげる。うつ伏せから、アザラシのように上体を上げる。

 風が吹く。山肌を撫でる、夏でも清涼な空気を運ぶ風が。

 コモはリューイを見ている。陽の光にきらめく、白くつややかな肌を持つ機竜を。

 コモは見ている。リューイの持つ幾筋もの棘と絡み合う、漆黒の棘を。

 それは夜闇を切り取ったかのような表皮を持っていた。陽の光を嫌い、降り注ぐそれを全て食い尽くしてしまったかのような、つや消しの黒。

 それは流線型をしていた。先端が尖り、後端が膨らんだ、空から落ちる水滴を思わせる形だ。

 それはリューイと瓜二つの姿形をしていた。その色彩だけが、正反対。

 リューイと対峙しているのは、漆黒の機竜だ。

 鋭い音。それは空を切る、リューイの棘の一つだ。すばやく伸ばされたそれは細く、しかしコモの両手と両足を拘束するバンドを切り裂くのには、十分な鋭さを持っている。

 自由になった両の手と両の足でコモは立ち上がる。

「コモ、逃げて」

 金属をこすり合わせる、ぞっとするほど高く澄んだ音が響く。白と、黒の狭間で。

「リューイ!」

「行って!」

 漆黒の機竜、その背から滑り落ちたものがある。幾本も伸ばされた棘の間をすり抜け、二・三歩よろめき、しかししっかりとした足取りで地に降り立つ。成人男性であることはその姿から読み取れる。しかし先程までコモを拘束していた男たちとは、雰囲気が違う。ウェットスーツのような身体にぴったりと沿う衣装。その上に深い緑色のジャケットを羽織っている。黒く短い髪は一瞬だけ陽光に触れ、色の濃いチョコレートのような色彩を見せる。こちらを見遣るその顔。柴犬のような、優しい作りの表情。それはいつか、どこかで見たような。

 それ以上コモは観察しない。その前に、走り出している。

「――コモ!」

 呼びかけられる名。その声は、どこかで聞いたような。

 コモは応えも考えもせず、ただ駆ける。人工物と自然物とを隔てる、ガードレールに向かって。

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