第16話

 日差しが強くなってきた。山の中、早朝である。気温は低い。ただ肌を焼く光の分、コモは「暑い」と感じている。足早に駐車場を縦断する。紺色の帽子のつばを、指先で撫でる。

 山中の道路の傍らに、ぽつんと立つコンビニエンスストアの駐車場は広い。街中を主な生活空間としていたコモには、この広さは不可思議に映る。ただのコンビニひとつに、どうして店舗の倍以上の広さを持つ駐車場が必要なのだろうか。

 その理由を、コモは推察する。だだっ広いコンクリート敷きの広場に、ぽつりぽつりと停められたトラック。通り過ぎざまにちらと見た運転席では、運転手であろう男性が腕を組み眠っていた。おそらくは、他のトラックでも。

 ああいう人たちのために、広く取っているのね。コモに馴染みのある車、その二台分はあろうかという車体を眺め、コモはひとり頷く。

 後でリューイと答え合わせをしよう。コモはトラックから視線を外し、コンビニへと小走りで向かう。帽子が飛ばないように、つばを押さえる。

 リューイは今、このコンビニエンスストアの五十メートルほど手前で待機している。コモが頑張って走れば、十秒と少しでたどり着ける場所だ。帰りは下り坂だから、もう少し速いかも知れない。

 いや、駐車場の広さを考慮に入れれば、三十秒は掛かるかも。

 そういった事を思考しながら、コモは帽子のつばを押さえる指に力を込める。そうして自身の体調から気をそらしている。

 午前五時四十九分。寝起きのコモは、トイレに行きたい。

 コンビニエンスストアの中は、冷蔵庫もかくやという冷房の利き具合だった。コモの限界に近い身体が、更に縮み上がる。店員の気の抜けた「いらっしゃいませ」を背中に受け、もはや全力で走る。

 幸運にもトイレは空いていた。コモは小学四年生としての矜持を守り抜いた。

 晴れ晴れとした心持ちで手を洗い、ふと見上げた鏡の自分と目を合わせる。桃色の髪が、帽子から盛大にはみ出している。髪を耳に掛けるようにして帽子に押し込む。

 鏡の中のコモ、その胸で記号めいたウサギが曖昧に微笑んでいる。カナリアイエローのTシャツ。コモは一歩下がり、腰から下も鏡に写す。リューイが「クラゲみたい」と評したミニスカート。黒いそれは、リューイにすればきくらげに見えるのかもしれない。ひっそりとコモは笑う。お気に入りの服は、コモの足取りを軽くする。

 早く海を、太平洋を見たいなぁ。帽子をかぶり直す鏡の中の自分へ、コモは呟く。

 コモもリューイも、大それたことがしたいわけではない。コモはただ、自由に生きていたいだけで、リューイもそれは同じだ。

 誰にも迷惑はかけていない。

 確かに、昨日リューイが襲ったトラックの運転手には悪いことをしたが、それだって交通事故にあったようなものだ。リューイには必要なことであったし、コモにも必要だった。

 みんなに食べられる牛や豚や魚や鳥に、みんな「悪いことしたな」って思わないじゃない?

 鏡面越しに、桃色の髪の少女は挑戦的とも言える目でコモを見ている。コモは少女に頷いた。少女もまた、コモに頷いている。

「なにが来たって、戦うだけだよ」

 次に来た機竜を倒したら、今度こそ太平洋を見に行こう。コモはスキップするようにして、身を翻す。

 トイレだけ借りるのも悪いしなぁ。そう言い訳めいたことを考えながら、すぐには出ていかずにお菓子の棚へと足を向ける。コモの知っている店舗よりも広い棚には、コモがコンビニでは経験したことのない量のお菓子が並んでいる。

 結局コモは、お菓子の棚でチョコレートとポテトチップスを見繕い、ついでにミネラルウォーターとジュースを一つずつ手にとった。

 立ったまま気絶しているかのように見えた店員は、しかし思いもよらぬ手際の良さでレジを済ませる。コモは慌ててレジカウンターへ小銭をぶちまけてしまう。が、店員は気にした様子もなく、やはり気の抜けた声で「ありがとうございました」と四苦八苦しながら財布をしまうコモへ言った。

 五百ミリリットルとはいえ、ペットボトルの二本収まったビニール袋はそれなりの重さになる。がさがさと鳴るそれを手に下げ、コモは自動ドアをくぐった。

 日差しはもうすっかり昼のそれに近い。ただまだ熱されきっていない空気が、時刻は早朝であるとコモに教えている。帽子のつばに指を掛け、コモは目を細める。今日も暑くなりそうだ。


 そう、思った直後だった。


 強い力で、コモは背中側に引き寄せられていた。

 何? と思う間もない。何か分厚く硬い物が背中に押し付けられている。口が、やはり厚く硬い、しかし無機物のそれではない触感に覆われている。

 何? とようやっと思考したコモは、それが何であるのかを確かめようとする。コンビニ袋を下げていない、右の手で。しかし腕は動かない。手首を何かに掴まれて、上げる事ができない。

 何? とコモは再び思考する。今度は「なにが起こっているのか」という意味で。

 それはコモの思考が奔るよりも速く、コモを担ぎ上げている。コモは自身の視点がぐるりと廻り、背中を向けていたはずのコンビニを見ていることに気付く。

 今しがたくぐり抜けたばかりのコンビニは、瞬く間に遠のいていく。

 あ、とコモは思う。気が付かぬ間に、ペットボトルとお菓子の入った袋はコモの手から滑り落ちていた。刻々と太陽に焼かれていくコンクリートの上に、白いその袋は置き去りにされている。

 チョコ、溶けちゃう。

 コモの至極まっとうな、しかし現状にそぐわない思考は、放り投げられた事で寸断される。

 痛い、と言う暇は、やはり無かった。放り投げられたと同時、引っ張り込まれていた。そして引っ張り込まれると同時、手首に何かをはめられていた。

 きゅ、という軽やかなビニールの擦れる音。それはコモの手首の後、足首でも鳴った。

「対象を確保」

 大人の男性の声だ。意識に過ぎるのは昨日別れた『友達』の声。けれど今しがた聞こえたのは、それよりも抑揚が少なく、無機質に感じられる。コモを抱え、そして前方に向かい声を発していたのは、がっしりとした体型の男性だった。その横顔に表情は薄い。

 ばん、と扉を閉める音。同時、コモを見下ろしていたのは、短い髪で少年のような顔をした男性だった。

「ちょおっと狭いけど、我慢してくれよな」

 彼は呆けたままのコモへそう告げると、まるで荷物でも扱うかの如き気軽さで、コモを持ち上げた。

 滑り落ち、尻を打った。いたい、と初めて声に出せたことで、コモはやっと周りを認識する。

 コモが落とされたのは、車の後部座席の更に後ろ、荷物を置く為のスペースであった。

 コモは男性に担がれ、運ばれ、知らない車に乗せられていた。誘拐だ。

「あんたたち」だれ? と続けるはずだった言葉は、短い悲鳴に取って代わられた。獣が唸るようなエンジン音と共に、強い慣性がコモを転ばせたのだ。

 体勢を立て直そうとするが、腕が自由に動かせない。見下ろした両の手首をまとめるようにして、白いバンドが嵌められている。足首もそうだ。感触からしてプラスチック製だろうそれは細く、引っ張れば簡単にちぎれそうに見える。だがコモがいくら引っ張ろうとも、手首をひねろうとも、そのバンドはびくともしない。ただ柔らかくコモを拘束し続けている。

 もう! コモの憤る声はエンジン音に紛れる。

「アルファワン、対象を確保。回収地点に向かう」

 先程のふたりとは違う、男の声だ。一体何人いるのだろうか。コモは身を捩り、不自由な両腕を使いなんとか身を起こす。

 運転席、助手席に一人ずつ。そしてコモが最初に放り込まれた後部座席に二人。座席から覗く髪の短さから、コモは全員を男性だと判断する。

 彼らはコモにかまうことなく、運転席の一人以外全員が手元を注視している。唸るエンジン音の中、硬いプラスチックと金属がぶつかり合うような、ガチャガチャとした音が響く。

 コモは一番近い、少年のような横顔の男の手元へ目を落とす。彼は膝に金属製の箱を乗せていた。よく見ればその箱には引き金が付いており、短い銃身をもつ短機関銃であることが見て取れる。だがコモには銃に関する知識は無く、ただマガジンを挿入されたそれをL字型の箱である、と認識したに過ぎなかった。

「お嬢ちゃん、頭下げてな」

 コモが見ていることに気付いた男は、やはり人懐こい少年のような顔でコモの頭を押した。その手付きは優しいが、有無を言わせぬ力を持っている。

 コモは車両の床にぺたりと座り込む。

「イ号は」

「今の所はいません」

「アルファシックスより。姿は無いそうです」

「そうか」

 低い声で交わされる会話。加速する車両は、感覚から山を登っているらしきことがわかった。

 こいつら何なの? コモは思考する。

 自分は誘拐されている。それはわかる。身代金目当て? それは違う。そういう奴らはこんなに統率が取れていない。もっと乱暴で、粗野な奴らだった。

 コモは思い起こす。彼らの会話を。エンジンの唸り声に紛れそうだったが、確かに聞こえた「イ号」という単語。

 こいつらはリューイのことを知っている。

 リューイのことを知っていて、コモを誘拐して。そこからどうしようというのかは、コモの頭ではわからない。

ただ確かなのは、この男たちはコモをどこかへ連れ去ろうとしていることだ。

 リューイと引き離して。

 がたん、と車が跳ねた。コモは短い悲鳴を上げ転がる。頭を打つことはかろうじて無かったが、硬い床に何度もぶつけたお尻が痛い。

 車両は加速を続けている。

「リューイ!」コモは転げたまま声を張り上げた。唸る車両に負けぬように。

「リューイ! あたしはここだよ!」

 リューイ! コモは叫ぶ。リューイを呼ぶ。

「黙ってないと舌を噛むぞ、お嬢ちゃん」

 揺れる天井を見上げるコモの視界に、人懐こい笑みを浮かべた男の顔が入り込んだ。その声は、確かにコモを気遣う響きを持っていた。無理矢理に連れてきてしまったことを、申し訳ないと。確かにそう思っているように聞こえた。

 けれどコモは叫ぶ。

「リューイ!」

 コモが求めているのは、この男の優しさではない。

「猿轡でも噛ませておけ」

「言わせておけばいい。イ号には届かんだろう」

「子どもの声は耳にクるんだ」

「我慢しろ」

 てんで勝手な男たちの言葉が、コモの頭上を通り過ぎる。視界の隅に見える後部窓の向こうでは、抜けるような青い空が緩やかに流れている。緑の木々は高速で流れていく。

 リューイ。コモは空を見上げ、呼んでいる。確信を持って。


 いくつものヒダで飾られたコモのスカート。そのポケットに収められている携帯端末は、はじめから通話状態だった。

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