第13話

「でね、結局ジョンはなんにも買わなかったの」

「ふうん」

「おかしいでしょ?」

 コモは話しながら服を脱いでいる。脱いだ衣服は適当にたたみ、邪魔にならないよう端に寄せる。

「そのジョンって人、パン屋さんから出てきたんだよね?」

「うん、そう」

「何も持ってなかったの」

 そういえばそうだ。コモは瞬きと共にドアの影から現れたジョンの姿を思い出すが、その両手は確かに空だった。商店街を歩き回る最中、その両の手を交互に取ったことからも、ジョンが何も手にしていなかったことは明らかだ。

「ほしいパンなかったのかな」

 お昼の時間はとっくに過ぎていたし、あまり良いパンがなかったのかもしれない。Tシャツから首を抜き、コモは頭を振る。視界の隅で踊る見慣れた桃色。ジョンの髪は、日に透けるとチョコレートのような濃い茶色になっていた。

「大学生、であるのは本当みたいだけれど」

「わかるの?」

「調べた」今話したばかりなのに、もう調べたのか。リューイはすごいなぁ。

感心と共に店名の刻印されたビニール袋を引き寄せる。

「まあ、もう会わないだろうから、そんなに心配することはないかな」

 別に何も心配はしていないのだけれど。思うが、コモは口に出さない。意識はすでに、ビニール袋の中身に及んでいる。

「どう?」

 頭から被ったTシャツの裾を引っ張る。布地に描かれた柄を見せるために。

「いいと思う」

「でしょ?」

 リューイの『中』で買ったばかりの衣服へ着替えてみせたコモは、その一言で満足した。予想通りの言葉だが、予想通りだからこそ嬉しい。

 小鼻を膨らませて破顔するコモに、リューイの気配だけが寄り添っている。リューイの『中』にあっては、あのどこを見ているのか判然としない顔すらも見えない。が、リューイの側からはコモの様子がきちんと見えているようだった。

 リューイの『中』は白い壁全体が発光しているかのように、ほの明るい。文章を追うのには適さない明るさであるが、リラックスして語り合うには丁度よい光度だ。

 コモが戦闘時に半ば寝そべるようにして座していた床は、今は平らかになっている。天井が低く腰をかがめなければならないが、立ち上がって着替えるのにも適している。着替えを終えたコモは、両の踵の間に尻を落とすようにして座していた。そうして胸を張り、そこに描かれた曖昧な笑みのウサギをリューイへと見せつけている。

「黄色が少し薄いのが、かわいいと思う」

「あとは?」

「ウサギがおもしろいかな。ほぼ無表情で。スカートも、クラゲみたいでいいと思う」

「でしょでしょ!」

 コモはそのなだらかな胸を更に反らし、自慢げに顎を上げた。まるで自分がそのTシャツを作ったのかのように。

「あとね、こっちもかわいいんだよ」

 狭い中で四苦八苦して着替えたことも忘れ、コモは即座にTシャツを脱ぎ捨てた。面倒や苦労などといった言葉は、リューイの称賛の前には意味を成さない。カナリアイエローのTシャツと、フリルが段になった短いスカートは、粗雑にたたまれて袋に押し込まれる。

 あと数分で午後五時になる時刻。コモが街を出てから、十時間ほどが経っている。

「そういえば」淡桃色のキャミソールとショーツに着替えたコモは、頭上に声を掛ける。

「あれからリューイのこと探しに来るヤツいないね」

「うん。その桃色、コモの髪と似た色だね」

「でしょお!」

 結局コモが下着店で買ったのは、コモの髪と似た色のキャミソールとショーツだけだった。コモの薄い胸に合うブラジャーは見つからなかったのだ。キャミソールだけでも満足だったのだが、コモの年齢を知った店員は、「いつかまた来た時に」と言って下着の割引券をコモにくれた。コモはそれを大事に財布にしまっている。

 それにしても、下着店に腕を引っ張って入っていった瞬間のジョンの驚きようと言ったら。思い出す度、こみ上げる笑いはコモの肩を揺らす。

「じゃなくて」

 そこまでを事細かく話しそうになり、コモははたと瞬いた。話が大幅に逸れる所だった。

「追いかけてくるヤツ! もう居ないんじゃない?」

「うーん」リューイの返答は曖昧だ。

「だからさ、海!」

 見に行こうよ。コモは今にも立ち上がらんばかりに尻を浮かせ、力強く拳を握る。

「胸のところのフリル、かわいいと思う」

「やっぱり?」

 コモは自身の胸元をたっぷりと飾り立てるフリルを見下ろし、その色彩と愛らしさにうっとりとし。

「って」

 もう! と怒声を上げた。ついでに拳も振り上げた。

「海! たいへいよう!」

「うん」

「見たーいー!」

「うん」

「見たい見たいみたい!」

「そうだねえ」

 暖簾に腕押し。柳に風。コモの脳裏に国語で習ったことわざが過ぎる。

 腕を振り回し、足をばたつかせて転がっても。リューイには痛くも痒くも無いようだ。

 自分のお腹の中で人が転がっていたら、悪寒のひとつも感じそうなものだが。リューイには感じられないのだろうか。それともやせ我慢?

 リューイの沈黙は、コモが自身の行動を客観視するのに十分な時間続いた。

 小学四年生になって久しいのに、自身の要求を通すために暴れるのは無いだろう。見上げる白い天井に、真白なリューイの顔を思い起こす。困っているとも、呆れているとも読み取れない、あの目も鼻も無い顔。

 はあ。コモはため息と、肩で息をするその中間の息を吐く。

「なんでダメなの?」

 転がったまま呟く。

 大の字になりたい所だが、リューイの『中』には手を横に広げられるだけの十分なスペースが無い。仕方なしに、コモは腕を肘で軽く曲げ、投げ出していた。

「見えないし、まだ来てないけど、ぼくらを見つけるのを諦めていないからだよ」

 リューイの声音はいつも穏やかだ。コモの容易にささくれ立ち、荒れ狂う心を落ち着かせるのに十分なほど。

「わかるの?」

「うん」

「どうやって?」

「うーん」逡巡する間。

 それはコモを誤魔化そうとするのではなく、コモに誠実に答えるための思考だ。コモにはわかっている。だから静かに待っている。

 単純な話、リューイと『繋がって』しまえばコモはリューイの思考を理解できる。事実、今のコモには余弦定理やら離散フーリエ変換やらについて理解している。

 が、納得はしていない。

 理解と納得は、近いようで違う。「そういうものだ」と原理を丸暗記するだけでは、そこからの発展は望めない。「そういうことか」と自分の中に落とし込めてはじめて、知識は機能する。

 コモの中にある知識の大部分は、未だ「そういうものだ」としか思えていない。 コモが今「そういうことか」と納得できているのは、リューイがコモひとりを買い物に行かせた理由だけだ。

 それも、愛ゆえに。

 今追われているのは、リューイだけ。相手方はリューイを探して、殺そうとしている。コモは巻き込まれたようなものだ。それが自ら望んでのことであるのは、ともかく。

 買い物という、周りの環境ではなく目の前のものに一点集中してしまう状況では、自身に近付く危険に気づき辛い。小学四年生のコモには、特に。

 だから、リューイはコモだけを買い物に行かせたのだ。

 コモが無事であることは、リューイの安全にも繋がってはいる。コモがいなければ、リューイは戦えない。そうではあるのだが、リューイはコモのことを先に考えてくれていた。そうであるとコモは思っている。

リューイはコモが好きだから、コモの安全を優先したのだ。コモはそう確信している。

 コモの髪を梳く、リューイの棘の優しさ。それが、コモの確信する愛の証左だ。

 コモには耐え難い孤独を、リューイはひとり耐えたのだ。コモにはできないことだ。

 ならば今度は、コモが待つ番だろう。コモは黙ってリューイの言葉を待っている。コモでも理解できるように、平易な言葉を探しているのだろう、リューイの思考する合間を。

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