第12話

 ウサギに呼ばれるようにして開いたドアをくぐる。涼しい風がコモの首を撫でた。背後でジョンが、ため息のようにふと息を吐く気配があった。

 店内は外とは別世界の気温だ。そこまで広い店ではない。コモの足でも、数分掛からずに一周できてしまう。ただ所狭しと棚やマネキンが置かれているため、歩くのに難儀しそうである。

 いらっしゃい、という声はドアのすぐ脇に据え付けられたカウンターから聞こえた。こちらに向けられているのか判別のつかない、空気に溶けるような女性の声だった。事実、店員であろう女性はコモを見てはいなかった。コモから見えたのは、カウンターの内側でパソコンの画面を見ている横顔だけだ。入ってきた時にちらりとこちらを見たのかもしれないが、はっきりとした視線はコモに感じられなかった。

 コモが知っている店では、店主や店員はまず品定めするかのような強い視線をコモへと送っていた。声を掛けたりはせずに、視線だけ。なぜ来たのか、なにをしに来たのか、無遠慮な瞳だけで探ってくる。コモは無言の好奇心に、居心地の悪さしか感じたことがない。

 この店は、この街と同様にコモへ無関心だった。それは居心地のよい無関心だ。相手が何であろうと、店で買うものがある限り受け入れよう。そういった商売に対する姿勢の違いを感じる。

 コモは肩肘を張ることなく、歩みを進めた。木目の床にスニーカーの底が少しだけ鳴る。自然光に近い店内に、視線を走らせる。ジョンの足音はよくしつけられた犬のように、コモの後ろを付いてきている。

 並べられた服は、カジュアルなものが多い。商品の半分以上はTシャツだ。表通りに向けて置かれていたマネキンが着ていた、ウサギ柄のものが多数だ。そのブランドのロゴなのだろうか。無地に近いが胸元に小さくあるもの、その柄で一面覆われているもの、様々なTシャツにそのウサギはいた。

「ウサギばっかりだね」ジョンの感想に小さく頷く。

 ふむ、とコモは棚に平積みされていた中の一枚を広げた。胸の真ん中で、抽象的なウサギが曖昧に微笑むものだ。それを纏った自分を想像する。白いTシャツはあまり似合わないな、とたたみ直す。

 何色が良いだろうか。コモは自身に問いかける。

「コモはピンク色が好きなんでしょ?」

 そうだけど、着るものもピンクじゃ変じゃない?

「そうかな。ぼくはそうは思わないけど」

 だってあたし、ピンクだけが好きなわけじゃないし。

「じゃあ何色が好き?」

 黄色、とか。

 コモは重ねられたTシャツの中から、淡い黄色の一枚を引っ張り出した。広げてみたその色は、小鳥のような柔らかな印象をコモへ与える。

「うん、良いと思うよ」

 リューイはあたしが何出してもそう言うじゃない。

「そうかな。でもぼくは、コモは何を着ても良いと思うんだ。コモはコモだし」

 全ては想像だ。想像の中の会話だ。それでもコモは笑う。思いがけずはにかんでしまう。

「それ、気に入った?」

「うん」ただ静かに傍らで待っていたジョンの言葉に頷く。

 これにしよう。コモはカナリアイエローのTシャツを胸に抱く。「もういいの?」というジョンの言葉にも、他のものにも目もくれず、まっすぐにレジへと向かう。ジョンはレジの手前で足を止め、コモを待つ素振りを見せた。

「デートに着てくの?」

 レジカウンターにて財布の小銭と格闘するコモへ、その疑問は投げかけられた。財布から跳ね上げた視線の先。ビニール製の袋にTシャツを収めた店員の姿がある。それまで全くコモへ興味を持っていないように見えた店員は、やはり問いへの答えを期待していないように見えた。視線はコモへ向けているが、その目に好奇心の色は薄い。ただ自身が売ったTシャツの行方を、明日の天気と同程度気にしている。それだけのようだった。

「そうです」

 自然、コモの口角は上がっていた。柔らかい、笑みの形に。

 同時に思い起こしたのは声だ。幼い大人のような、大人びた子どものような。コモの目の前にたたまれたTシャツに似た、曖昧な色彩を持つ声。

 リューイ。

「そうか。楽しんでね」

「はい」

 一瞬の世間話だ。過不足ない金額を受け取った店員は、コモにレシート一枚を渡すと「ありがとうございました」と通り一遍の文句を口にし、それからはまたコモへ興味を無くしたようだった。

「買えた?」

「うん。行こ」

 ビニールバッグを手に、ジョンを先導する。

 デート。好きあった男女が、揃って出かけることだとコモは理解している。

 リューイは男の子ではない。とコモは思っている。かろうじて声の響きに異性の片鱗はあるが、それ以外、見た目や能力はコモの知る一般的な男の子から大きく外れているからだ。

 それでもコモは、リューイとデートするのだと胸を張って答えることができた。

 リューイはきっと、コモのことが好きだ。

 それはただ、リューイがコモを置いていったことが根拠だった。

 コモならば、たったひとり見知らぬ土地で、ただ誰かを待つだけの時間は耐えられない。たとえ追われているのが自分でも、無為な時間を孤独に過ごすことよりも誰かと過ごすことを選ぶだろう。リューイはそれをしなかった。それはきっと、自身の孤独よりもコモの安全を選んだがためだ。コモはそう確信している。

 コモはリューイのことが好きだ。

 それはただ、コモがTシャツをリューイに見せるために選んだ、それだけが根拠だった。

 それだけで、コモはリューイのことを好きなのだと、はっきりと自覚できた。コモにとっては、それだけで十分だった。

 店の外には、相変わらず刺すような夏の日差しが照りつけている。コモは焼けたコンクリートの上に大きく一歩を踏み出した。戸惑いも、苛立ちもなく。紺色の無愛想な帽子ですら、今は日差しを遮るのに丁度よい、と思える。

 やはり下着を買いに行こう。髪の色に似た、かわいい色の一枚を。そう決めて、Tシャツの収められたショップバッグを翻した。

「ジョン、次こっち行こ!」

 手を取り、駆け出す一歩手前の速度で歩き出す。成人男性の、みっしりとした重みのある腕。その先にある従順な犬のような瞳と、一瞬だけ視線が噛み合った。

 彼が現れたのはパン屋の店先だった。彼は、何か食べるものを探しに来ていたのだろうか。

 自分のことにばかり付き合わせて、彼の用事をないがしろにするのは良くない。――友達なら。

「ね、ジョンは何か買いに来たんじゃないの」

「え、俺は……んーと、特には」

「ふうん。どこか見たいところあったら言ってね」

 ありがとう、と言ったジョンは、どうしてか困ったように笑っていた。

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