第11話

「ごめん、気付かなかった」大丈夫かい、と呼びかける声は柔らかい。教室や、校庭に響く男子の甲高いものとはまるで違う。そして今までコモが話したことのある、どの男の人のものとも。

 声音のせいだろうか。日差しを背負い影が落ちた表情に、コモは恐怖心を感じない。差し伸べられた手にも素直に触れてしまう。硬い手のひらだ。

 コモが突然現れた壁だと認識したのは、木製のドアだった。男性は、コモが前を通り過ぎようとしたパン屋から出てきたところのようだ。

「ごめんなさい」

「いや、俺の方が悪いんだ」

 立ち上がって初めて、コモは男性の人相を認識した。――柴犬だ。少年のような、人懐こそうな瞳にか。通った鼻筋にか。どこか楽しそうにも見える弧を描く口元にか。コモにはどこがどう、と具体的に示すことは難しいが、その男性を『柴犬に似ている』と判じていた。羽織られたパーカー越しにでもわかる頑強な体躯だが、その飼い犬めいた空気のお陰でコモは頼もしさだけを感じ取っている。

 無遠慮に顔を眺め回すコモを咎めることはせず。男性はコモの少し上方に視線を落としていた。

「……いい色だね」

「え?」

 それ、と男性が指したのは、コモの頭だ。コモは咄嗟に示された場所に触れている。

「あ、帽子」

 触れてようやっと、コモは被っていたはずの帽子を喪失していることに気が付いた。

「これかな?」

「あ、りがとう」男性は膝を付き、コモの足元に落ちていた帽子を拾い上げた。

 差し出された紺色の帽子を受け取る。どうやら転んだ時に飛んでしまっていたらしい。

 わざわざ地面に膝を付き、コモの帽子を拾い上げる。男性がごく自然に行った動作に、コモはどうしてか赤面してしまう。顔を隠すように俯き、深く帽子を被った。

「かぶっちゃうの? もったいないね」

 他人から――それも大人の男性から髪の色を褒められたのは、初めてだ。コモが知っている異性は皆、コモの髪を見てぎょっとするか顔を顰めるかのどちらかだった。けれどこの男性は、わざとらしくもなく、馬鹿にしている風でもなく、素直にコモの髪を褒めてくれた。嬉しい。と同時に気恥ずかしい。その照れが熱となり、コモの頬に乗る。

 何か言葉を返さねば。お礼か。疑問か。はたまた。

「……もしかして、ナンパ?」

 それは照れ隠しの憎まれ口だ。大人の男の人がコモに対してそんなことをするはずがない。コモは知っている。だからコモは男性が『何を言っているんだ』と笑ってくれるのを待つ。

「……え」

 降ってきたのは、戸惑いが多分に乗ったつぶやきだった。

「え」と同じ音がコモの喉を揺らす。

 思わず見上げたその先。目と口を開いて、眉を軽く上げたその顔。ぽかん、きょとん、と形容したくなるような表情があった。知らない人に名前を呼ばれた犬はきっとこんな顔をしているだろう。そうコモは感じている。

 見上げたその表情が、ぼわ、と音がしそうなほど唐突に、赤く染まった。

「え、いや、そんなつもりじゃ……」

 口元を押さえる、狼狽を絵に描いたような仕草。

 すごい、とコモは小さくつぶやいていた。大人の男の人も、こんな風に顔を染めることがあるのか。自分――小学生の女の子と同じように。コモが知っているどの大人も、顔を真っ赤にして照れることなどなかった。だからコモは、大人は皆感情の起伏が少ないのだと思いこんでいた。

 この人が変わっているのだろうか。それとも、コモが知らなかっただけで、大人もみんな子供のように照れたり笑ったりするのだろうか。

 コモが見上げる中、男性は口元に手をやったまま、空を見上げるように上向いた。

「うん、ごめん。実はそう」その口をついて出たのは謝罪だ。

「そうなの?」

「ええと、実はサークルの飲み会で、罰ゲームにあたっちゃって……誰かナンパしろって。

 その相手を探していたのは本当」

 サークル、とは何のことだろう。コモは瞬きの合間に思考する。輪っか、の意味だったような気がするが、話の内容からすると部活動と似たようなものだろうか。

「でもぶつかったのは偶然! わざとじゃない」

 でも、ごめん。と再び謝られる。両手を顔の前で合わせた、拝むような格好。その影から覗く瞳が、コモにはやはり叱られた犬のように見えてしまう。

 愉快だ。コモの胸に浮かんだ感情は、大人の男の人に向けるものとしては初めてのものだった。そもそも、他人に向けるものとしても初めてかもしれない。

 コモはデートの意味をよく知らない。好き合った男女が一緒に出かけるもの、という認識しかない。出かけて、何をするのかの知識が無い。

 でもデートするのなら、リューイとがいい。コモは直感でそう思っている。リューイと出かけて、何をするのか。何をしたいのか。

 この愉快な大人と試しにデートしてみて、探してみるのも良いかもしれない。だってこの人は面白そうだし、他の大人と違う。もう少し、観察してみたい。

「デートして、写真取ってこいって先輩に言われたんだ」

「小学生でもいいの?」

「しょ……ッ」

 小学生? と問い返されるのに頷く。

「え、ええ……」

 固まってしまった。クラスの男子でも見たことの無い反応だ。優越感だろうか、小さな子どもを相手にするように、その手を取って引っ張って歩きたいような気持ちが湧き上がる。

「いいよ。デートしたげる」

「高校生かと思ってた……」

 唇の両端が釣り上がる。大人びて見られたことが素直に嬉しい。衝動のままに、だらりと下げられていた手を取る。大きく、分厚い手だ。

「服! 買いに行くの! ついてきて」

「え、あの、ところで学校は」

「おやすみ!」

 ふふん。と微笑みが鼻に乗る。あたしは高校生に見えるのだ。薄い胸を張り、大きく一歩を踏み出した。

 初めはつんのめるようにして忙しなく。しかし数歩で男性は自らの歩みを取り戻したようだ。コンクリートの上に踊る二人分の不揃いな足音は、次第にコモの軽やかな歩幅に合わせた二重奏に変わる。

「そういえば、お兄さんお名前は?」

「ジョン。カナモリジョン」

「ふうん。あたしコモ」

 カナモリはクラスにもいる。同じ『金森』という漢字だろうか。ジョンはどんな漢字で書くのだろうか。ジョとン、が別だとンの漢字があるのだろうか。

「コモ、ってどういう綴りで書くんだい?」

「んとね」

 コモは小桃を省略したものだ。なぜ省略するのかというと。

 コモの脳裏に目まぐるしく疑問と回答が浮かぶ。どれから口に出したものか、思考と選択が浮かんでは消える。

 友達と会話をするのって、すごく大変だ。目が回りそうになる。クラスの子たちはみんな毎日こんなことをしていたのだろうか。しかも、自分対ひとりではなく、複数の子と会話をしたりもしていたはずだ。みんな子供じみていて嫌いだ、と思っていたけれど、本当はみんなすごいことをしていたんじゃないだろうか。

 コモの思考は、眼の前のジョンから遠くへ置いてきたはずのクラスメートへも及んでいる。もう少しちゃんとお話しておいてもよかったかな。後悔になりきらない小さな心残りがコモの胸に生まれた。

 はずであった。

「ウサギ!」

「え?」

 が、それは視界に飛び込んできたウサギの前に儚く消えた。

 目が合った。道路に面したショーウィンドウ、その向こうに鎮座するマネキンが着ているTシャツ。その胸の真ん中に描かれた顔だけのウサギと。その顔は、極限まで情報を減らされて記号めいて見えた。白目の無い目は、ほとんどただの黒い丸だ。それでも確実に、目があったとコモは思った。

「ここ見たい!」

「ここ? わ」コモは衝動のままにジョンの腕を引いていた。

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